哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

「養老孟司の大脳博物館」最終回

2013-04-30 22:05:05 | 時事
アエラという雑誌に連載されていた、養老孟司氏の掲題コラムが最終回になったという。池田晶子さんも一目置いていた方でもあり、アエラのこのコラムは必ず読んでいた。

最終回において養老氏が端的に言うには、「人は結局、世のため人のために生きている。」というものだった。

「あの世のことは知らないが、この世では死んだ本人は死んでも困らない。困るのは、生きている人である。私が講演の直前に死んでも、困るのは講演の主催者なり聴講者であって、私は何も困らない。」(掲題連載コラムより)

養老氏の言葉は、当たり前のことをユーモアっぽく語っているように思えるのだが、これをユーモアと捉えると、事の本質をなにもわかっていないということになるのだろう。自分が死んでしまえば、自分は無になってこの世にいないのだから、自分が困るということはありえない。あの世から自分の魂が、申し訳ないと思っているかもしれないが、そんなことはこの世ではわからないし、あの世のことは我々はわからない。

上の文章の後、養老孟司氏は、「自分の命は自分のものではない」ということが、最近の教育から抜け落ちていると指摘する。かつてそのことは、キリスト教が自殺を悪としていたように、宗教が補っていたとする。確かに、宗教に依拠することにより生きることは、ある意味精神的な支えを得ることができよう。しかし、哲学は何故そうなのか、を考える。

人は世のため人のために生きている、自分の命が自分のものではない、ということはどういうことか。人のため、というのは自分以外の人のため、ということだろう。だが、自分とは何か、すら答えはなかったはずだ(nobody)。自分とは何かがわからないのに、自分以外の人のためというのは、一体誰のためなのか。同じように、自分の命とは誰の命なのか。そもそも、人間は命を作ることさえできない(蚊さえ作れない)。人間は単に自然の摂理により、命をつないで子を作っているだけだ。自分とは、命とは、というこの当たり前の不思議さに、考えがどこまで及ぶのかわからないが、考えるしかないのである。


『倚りかからず』(ちくま文庫)

2013-04-10 01:54:45 | 
茨木のり子さんの詩の評判がいいことを知って、表題の詩集をだいぶ以前に買ったのだが、当初読んだ時は、あまり印象が良くなかった。金子みすずさんや谷川俊太郎氏のわかりやすい詩に比較して、言いたいことがすぐに捉えられず、何故か感性が合わないような感じがしたのだ。

ところが、しばらくして改めて読んで見ると、ほとんどの詩がストンと肚に落ちた。文庫の帯に「しなやかに、凛として」とあるが、まさにその形容がぴったり当てはまるような詩ばかりだ。谷川俊太郎氏の詩が子どもの感性なら、茨木のり子さんは大人の感性と言えるだろう。

題名の「倚りかからず」は、「もはや できあいの思想には倚りかかりたくない」と始まり、まさに人間精神の凛とした崇高な独立宣言のようにさえ思える。しかも、それは長い人生において見ざるを得なかった、世間の思想や権威の裏切りを見てきた末のような思いにみえる。最近、城山三郎氏の文章も読んだりしているのだが、茨木のり子さんの考え方とシンクロしている気がするのである。

なかには、国歌について「私は立たない 坐ってます」と書いている部分もある。改憲派の政治家やナショナリズムを鼓舞する向きからは反発を受けるだろうが、著者の姿勢は至って静かに凛としているようだ。

「時代おくれ」という詩では、「そんなに情報集めてどうするの そんなに急いで何をするの 頭はからっぽのまま」とあって、まるで池田晶子さんと同じような言葉にうれしくもあった。