哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

鷲田清一著『ひとはなぜ服を着るのか』

2013-05-25 06:28:28 | 哲学
確か新聞書評だと思うが、鷲田清一氏の『ひとはなぜ服を着るのか』(ちくま文庫)の文庫化を取り上げていて、ファッションやモードを哲学的に考えた気軽な本というイメージで読み始めた。読んでみると、服のことのみならず、皮膚や化粧にまで話題は広がり、意外に深く考えさせられる内容であった。

とくに印象深く思ったのは、概念の両面性、あるいは対立概念の含意である。例えば、ファッションは流行することを大前提としているが、それはいずれ必ず流行は廃れることも含意している。だから、ファッションは常に新しく更新されなければならない。また、制服は規律にたいする従順さを表すゆえ、その従順さを凌辱するような眼差しを呼ぶ逆の面があるという(コスプレが典型)。いずれも、対立する概念が一つのものの内部にあるのである。

さらには、境界のゆらぎ、というような考え方も面白い。例えば「下着とは、わたしとわたしでないものとの境界というよりは、むしろその二つがかさなる場所、つまり〈わたし〉であり、かつ〈わたし〉でないような、あるいは〈わたし〉の内部(インテリア)であり、かつ外部(イクステリア)であるような、曖昧な場所なのである。」(掲題書より)とある。そして、そこに他人の欲望、エロティックな視線もその場所を駆け巡るという。つまり、自他の区別は境界でゆらいで重なり合い、まるで快楽と欲望により、自他の融合を指向しているかのようだ。

このことから考えを進めると、日常に起こるあらゆる事象はもちろん、あらゆる概念は常にその対立概念をその内側に秘め、しかも融合するかのように揺らいでいるのではないか。例えば、生の対立概念は死であるが、生は死があってこそ明らかになる概念である。つまり、死がなければ生はない。実は、生という概念の内側に死という概念が含まれている。一つの概念は対立矛盾するものを常に含意するのだ。まるで生きている個体の中では、細胞が常に死んで再生しているように、その内部では生と死がせめぎ合い、生と死は矛盾し揺らぎながら、成長と老成へと進んでいく。

これはまさに、弁証法そのものではないか。



『人類哲学序説』(岩波新書)

2013-05-06 19:59:59 | 
梅原猛氏の著書はあまり好みではないものの、中をパラパラと見て、デカルトやらハイデッガーやらに触れているので読むに値する本かなと思って購入したのだが、冒頭から読み始めてすぐ、しまった!失敗したと感じた。だからこの本はお薦めできない本として紹介する。


冒頭でいきなり「人類哲学というものは、いままで誰にも語られたことがありません。人類ではじめて、私が人類哲学を語るのです。」とある。そのあと、その人類哲学の根本思想が「草木国土悉皆成仏」という仏教の教えだとしたうえで、梅原氏自身の業績に触れたりながら、アニミズム的な考え方が近代西洋文明を克服できるとする。最後の方では、プラトンのイデアを挙げて不死の思想としたうえで、「不死の思想というものは人間中心の思想であり、それは人間のはなはだ利己的な思想ではないでしょうか。このような文明ではいけません。むしろ、「人間は死すべきものだ、生きとし生けるものは死すべきものだ」という考え方こそが、人類の未来に繁栄を保証する思想ではないでしょうか。」(P.201)というのだ。


そもそも冒頭の「人類ではじめて、私が人類哲学を語るのです」とあるが、それはおかしくはないか。「人類哲学」という名称は初かもしれないが、およそ哲学と呼べる内容であるなら、その本質は人類普遍に妥当するものであるはずだ。さらに、人間が死すべきものだという考えをしないのは、宗教ではあるかもしれないが、哲学ではないのではなかろうか。哲学でいうなら、死とは何かがわからない、と言っているのである。死んだことがないからわからないともいえるが、逆に言えば、生きているからと言って、生をわかっているのか、と哲学は問うのである。


池田晶子氏の言葉はもちろん日本語ではあるが、全人類を相手にしていると堂々と述べている。

「私は、「私の」言葉、どのようにも自己限定しない自己から発せられるところの言葉、その壮大なるモノローグを、全人類相手に一方的に語り聞かせたいという、無体な情熱を隠しもっているのである。」(『残酷人生論』「全人類相手のモノローグ」より)