哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

「日めくり池田晶子」の作り方

2008-06-30 00:00:25 | 哲学
 やっと一通り「日めくり池田晶子」の作成が終了した。当初は池田さんの思考の熟成に沿うつもりで、出版年順に取り上げていこうと思ったが、結果的には内容の連関を意識した順序となった。

 さて、せっかくなので実際に日めくりを作ってみよう。ロフトやハンズが近くにあれば、いろいろそれ向けの材料があるのかもしれないが、そんなものが近くにない場合の、見映えを気にしない廉価な作成方法を以下に紹介してみる。



 用意するのは、針金ハンガー、糊、ガムテープ、A4紙31枚。

 まずは、番号とそのすぐ下の本文、及びその1行後以降の解説文を、パソコンのワード等のファイルに1回ごとにコピー・貼り付けしていって移す。
 印刷したときに用紙1枚に1回分となるように加工して、印刷する。なお、数字と本文は大文字にした方が見映えはいい。縦書きか横書きかは好みで。ただし上4cmくらいは糊しろ・くりしろを残す。
 31枚印刷が終わったら、上部の1cmくらいの幅を糊付けして、1番から31番まで順番に接着する。
 31枚とも接着し終わったら、針金ハンガーに吊るすようにガムテープで接着する。あとは、めくりやすいように針金ハンガーのかたちを四角などに変形すれば出来上がり。


 ぜひ池田晶子さんの珠玉の言葉を、座右にしていただきたい。

日めくり池田晶子 28

2008-06-28 00:00:23 | 哲学
 既に29~31は作成済みなので、いよいよ今回が「日めくり池田晶子」の最終回である。全ての池田さんの言葉の中で一つのみ取り上げるとすれば、今回の言葉かもしれない。





28 善く生きることだけが生きる価値である。

 哲人ソクラテスが、死刑を拒まなかったことの意味を、後世はまったく誤解しているのだが、彼は善もしくは正義に「殉じて」死んだわけでは決してない。 善く生きるためには生きている必要があるが、しかし生きていることはそれ自体で価値であるのではない。価値それ自体は、生死の枠内には存在しない。つまり価値は生死とは関係がない。だから死刑であってもなくてもどっちでもいい。彼の死刑は、このような理屈によっているのである。(『考える日々Ⅲ』「死の向こうの存在と宇宙」より)





日めくり池田晶子 27

2008-06-27 00:00:22 | 哲学
 「考える」とは、言葉で考えることではない、と池田さんは言う。また、哲学書は、考えた結果を言葉にしただけである、と。





27 考えている現場、リアルタイムの最前線は、決して言葉によってはいない。そこには、いかなる言葉もない。

 なぜなら、考えるのは、わからないから考えるのであって、わからないことはわからないゆえに、未だ言葉にはなっていないはずだからである。 人が、哲学書について、わかるとかわからないとか、難しいとかやさしいとか、言うこと自体の間違いも、ここに起因する。(『考える日々』「生きていることは、しょうもない」より)




日めくり池田晶子 26

2008-06-26 00:00:21 | 哲学
 現実があるから言葉があるのか、言葉があるから現実があるのか、池田さんによれば、常識的な考え方が逆転させられ、そしてよく考えるとそれが正しいとわかる。





26 世界とは言葉であり、言葉こそが世界を創っている

 物理的世界、人呼んで「現実世界」、生きるか死ぬかのこの世界こそが現実だと人は思うわけですが、まさにその「生きるか死ぬか」こそ、なんと意味以外の何ものでもないのですよ。(『暮らしの哲学』「なぜ「意味」がわかるのか?」より)





(余談だが、今週の報道で、池田晶子さんの共著者だった陸田真志死刑囚の死刑が執行された、とのことであった。)

日めくり池田晶子 25

2008-06-25 00:00:20 | 哲学
 言葉とはどういうものか。いよいよ池田さんの核心たる、その言葉である。





25 言葉は命なのである。

 人は言葉なしには生きてはゆけないのだから、言葉とは、すなわち命なのである。 なのに現代人はすっかり思い上がっているから、人間が言葉を使っていると思い込んでいる。しかし逆である。言葉に逆上した人間が殺人を犯すとは、人間が言葉に使われているまぎれもない証拠である。(『勝っても負けても 41歳からの哲学』「言葉の力を侮るなかれ」より)




日めくり池田晶子 24

2008-06-24 00:00:19 | 哲学
 「敵」という言葉を用いることにより、自分とは相容れない「敵」という他人を作ってしまうのだ。しかし、自分と他人という区別も、実はない、と池田さんはいう。





24 すべてが汝である

 「汝の敵を愛せよ」とは、それ自体が不可能な言表ではなかろうか。全人類がじつは自分であるということに、全人類が気づくまでには、人類は業(カルマ)を重ね、いくたびとなく自滅しなければならないのである。(『ロゴスに訊け』「汝に敵は存在しない」より)




日めくり池田晶子 23

2008-06-23 00:00:18 | 哲学
 恥の概念も、池田さんは、倫理と自由の概念で捉える。





23 自分が自分に恥ずかしいと感じる、これが本当の恥である。

 他人に対して恥ずかしいというのが、通常の恥の観念である。しかし、ちょっと考えると、これは何ら問題ではないとわかる。生きているのは自分だからである。自分の人生は、自分の生きたいように生きればよい。他人にどう見られるかが、なぜ問題か。(『41歳からの哲学』「プライドはあったのか」より)




日めくり池田晶子 22

2008-06-22 00:00:17 | 哲学
 「正直者は馬鹿を見る」という言い方を、池田さんは大嫌いだと言う。





22 正直というのは、一切の勘定というものをもたないから正直というのである。

 正直者が法律を守るのは、守らないと罰せられるから守るのではない。そもそも自分の行動規範がそのような損得勘定にはない、そのことが結果として法律を守ることになっているだけである。(『考える日々Ⅲ』「正直者は馬鹿をみるか」より)




日めくり池田晶子 21

2008-06-21 00:00:16 | 哲学
 池田さんは、道徳と倫理とを次のように明確に区別する。





21 道徳と倫理との違いとは、単純明快、強制と自由との違いである。

 「してはいけないからしない」、これは道徳であり、「したくないからしない」、これが倫理である。「罰せられるからしない」、これが道徳であり、「嫌だからしない」、これが倫理である。道徳は、外的規範によって強制できるが、倫理は、内的自由によって欲求されるしかない。(『考える日々』「「倫理」とはどこに存在するのか」より)






日めくり池田晶子 20

2008-06-20 00:00:15 | 哲学
 人間は理想的ではあり得ないから、理想国の実現は不可能だ、と人がいうとき、自ら人間は理想的ではあり得ないと思う人間が、理想的ではないのは当たり前ではないか、と池田さんは当然のごとくにいう。そして、さらに次のように。





20 人間は自由を欲するもので、秩序で規制できるものではない、だからこそ、理想国の実現は可能なのだ

 これが人には理解できない。なぜなら、彼らにとって「自由」とはつねに、現世的快楽の追求のみをいい、けっして理想すなわち真善美の追求を意味しないからだ。しかし、「自由」はじつは、そこにしか存してはいないのだ。(『考える日々』「真実をめぐる本末転倒」より)