哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

日めくり池田晶子 38

2011-05-29 04:58:58 | 哲学
 前回経済学的思考をきちんと行うべきとする本を紹介したが、経済学では合理的人間が想定されており、基本的に利益最大化や効用最大化を合理的に選択するのがその人間像だ。それはそれで、論理的思考になじむ。さらに最近は行動経済学など、人間の非合理的行動の研究も多いと聞き及ぶが、それとても損得を基準に選択する点では変わらないであろう。しかし形而上学では、根本的に人間像が異なる。それについて言及した文章を取り上げてみよう。




38 形而上学には値段はつけられない



 なぜなら、値段すなわちこの世の価値とは損得だが、形而上の価値は善悪だからである。多くの人は、損得と善悪とを間違えている。得をするために人間が悪くなることが、どうして善いことなのだろうか。損をしても自分が善くなるのなら、どうしてそれが悪いことなのだろうか。(『考える日々Ⅲ』「私の値段はおそらく0円」より)

『経済学的思考のすすめ』(筑摩選書)

2011-05-21 01:22:22 | 時事
 学問として経済学を学んだことはあっても、社会人として生活しているうちに、経済に関して世間で流布している非論理的思考に慣らされてきてしまってはいないか。その原因は、経済は生活に直結するがゆえ、直観的に世間で話される非論理的言動が多く、あたかもそれらが正しい論理的帰結であるかのように受け入れられてしまうからかもしれない。言論の自由がある以上、非論理的思考を語ることは自由だが、それを聞く側がその間違いを認識できないと、とんでもないことになる。民主政システムによって、国の経済政策の選択を間違ってしまうことになりうるからだ。その非論理的思考を簡単に矯正するための良本が表題の本である。


 この本では非論理的思考の例として「アナロジー(似ているものから類推する)例:国の借金=個人の借金のように論じてしまうこと」や「アブダクション(ある事象の結論から前提を真と類推すること)例:ある金持ちは努力してそうなった→努力すれば金持ちになれると類推してしまうこと」との考え方で紹介し、専門家外の者が平気で間違って経済を論じていることを指摘している。


 本書ではとくに前者の類推の仕方を、類推的帰納法と書いている。本来数学における帰納法は厳密に論理的な思考なのだが、生活経済に関しては、メディア報道においても、上記に挙げているような非論理的な類推が確かに多いと感じる。単に世間話として語る分には問題ないが、昨今のメディアでは世間話的非論理的言明が、経済学者以外によっても結構まことしやかに語られることが多いのは、本書の指摘するとおりである。


 本書の後半では、経済学者らしく、市場原理を重視した論調を展開するが、さらに日本の最近の経済低迷の原因について、日銀にインフレ目標の達成を義務付けないからだと断定している。この政策一つで劇的に日本経済は復活するのかは、もう少し他の学者の意見も確認したいところだ。

ワイン

2011-05-16 00:55:55 | ワイン
 このブログの題名に「哲学とワインと」と題していながら、ワインについてはほとんど書かなくなってしまった。もちろん普段ワインは飲んでいる。というより、自宅ではワインしか飲んでいない。このことを周りに話すとよく驚かれる。アルコールを嗜む普通の家では、まずビールがあるのが通常であり、あとは日本酒か焼酎が中心のようである。我が家の飲用アルコールは料理用以外にはワインしか置いていないし、そもそも自宅で毎日は晩酌はしない。アルコールを飲むのは基本的に週末だ。

 世間にとっては、ワイン選びは至難の業のように思われている。とくに赤ワインの味わいはバラエティーに富むうえ、世界各国からワインが輸入されているから、選びにくいのだろう。
 ワイン選びでお薦めしたいのは、まず店選びだ。ワインにこだわりのある中規模のショップあたりがよい。そうすれば、選ぶワインの数もあらかじめ絞られているし、店員からアドバイスも受けやすい。しかも流通過程でのワインの扱いが丁寧でなければならないから、その意味でも店選びは重要である。
 品揃えの多い店で選ぶ時に、他に目安がなければ値段を頼りにするが一番で、昔は2500円基準説(2500円以上だと大抵おいしい)ということが言われていた。最近は、アジア新興国の隆盛や円高等があり、この金額は多少流動的かもしれない。しかも、1000円でもおいしいワインがあったりする一方、2000円くらいしてもまずいワインもある(私も最近それにあたった)。安くておいしいワインを見つけるには、1000円くらいのワインをいろいろ試してみるしかないのかもしれない。


 さて、池田晶子さんは相当な酒豪であった。晩年は病気との関係で、あまり飲めなかったのではないかと推測するが、酒に関する文章もかつて書いている。


「私は、酔うほどに冴えてくる体質なのである。酔うほどに、理性と知性が燦然と冴えわたり、全宇宙の全事象がわかる、わかった、という感じになる。
酒のことを「スピリット」と名づけた感性は人類に共通しているようだ。あの液体は、私にとって、明らかに「精神」であり、思考の潤滑油もしくは起爆剤として作用する 。いや、作用したのだった、かつては。
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まだよく覚めやらぬまま、日も暮れてきた。今日の仕事は、これでおしまい、これ一本。さて、酒瓶抱えて、今宵も私は精神(スピリット)の旅に出る。」(『考える日々』「酔うほどに冴える、はずだったが」より)

日めくり池田晶子 37

2011-05-14 01:37:37 | 哲学
「日めくり池田晶子」は、しばらく間が空いてしまったが、再び適宜続けてみよう。今回は震災後に合わせて、地震関連での言葉にしようと思ったが、すでに33で取り上げていたので、死に関する別の言葉を取り上げる。今やビン・ラディン後で、再び自爆テロも増えるのではないかと言われている時勢でもある。



37 死はどこまでも観念、観念でしかないのである。


反戦という観念に殉じて死のうとした人々は、愛国という観念のために自爆して死んだ人々と、その心性としては同じである。どちらも、自分ひとりで思い込んだ観念によって、現実に対抗できると思い込んでいるのである。しかし、自分ひとりで思い込んだ観念は、自分ひとりで完結しているのだから、そんなことは無理に決まっている。現実とは、大勢の人の観念によって成立しているものだからである。生き続けて理想を現実化する努力をしようとしないあれらの人々の行動を見ると、無責任だ、信用できないと、私は感じるのである。(『41歳からの哲学』「死にたいのか、死にたくないのかー人間の盾」より)

『ハングルの誕生』(平凡社新書)

2011-05-08 02:00:00 | 語学
 言葉は命である、とは池田晶子の繰り返した謂いであるが、その言葉とは、日本語とか英語とかの言語の違い以前のレベルの言葉を指している。しかし、どの言語であっても、話される以上、音を持つ。そのことについても池田さんは書いたことがある。


「言葉とは「意味」ではなくて「音」なのだと、考えている、というよりむしろ捉えている人々がいる。「意味」より先に、「音」があると。
 なるほど単純に時系列で考えてみても、話し言葉の方が書き言葉よりも成立は先だ、書き言葉においては意味の伝達の機能が前面に出てくるけれども、話し言葉においては、人は「話す」すなわち「発音する」こと自体を目的にすることもあり得る。古代の詩人や歌人たちは、書く人ではなく歌う人だったという事実ですね。詩や歌においては、意味よりも韻律や音の響きの方が大事だ。」(『暮らしの哲学』「心を動かす「音」」より)



 さて、前置きが長くなったが、表題の本において、ハングルがまさに音そのものを文字にしようとした世界にも稀有な例であり、その誕生経緯を中心に大変面白く書かれている。日本語も音を示す言葉であるひらがなやカタカナを漢字から作ったが、発音の仕方そのものを文字に直接表すという、きわめて高度な考え方は一歩ハングルに劣るといわざるを得ないであろう。もちろんアルファベットも子音や母音を文字で表すとはいえ、発音の仕方を文字に表してはいない。


 ハングルを知らない人は一体何を言っているのかわからないかもしれないが、例えばカタカナの「カ」は、文字自体には子音や母音の区別をあらわさないし、発音の仕方も文字自体が示しているわけではない。しかし、ハングルの同じ発音を示す「가」という文字はアルファベットでいえば「ka」と同じだが、文字の左側はkを発音する際の口内の舌の形を象っているのだ。また「다」は「ta」の発音だが、やはり左側は「t」を発音する際の口蓋と舌の形を象っている。ちなみに右側の母音の形も、発音の仕方を組み合わせて作られているそうだ。


 このようなハングルを、今まで文字を使えなかった庶民が使えるようにと、時の王の命令で作ったのが15世紀のことだそうだが、その後実際に多くの人々が使う文字になったのだから、その当時の高度の知性には大変驚嘆する。表題の本を読むとわかるが、現代の言語学に通ずる理論を500年前に先取りしているのだそうだ。


 世間では何かと日本語の秀逸さを強調するような、少しナショナリズムがかったような言動がよく見られるが、隣国のこの高度な知性の歴史ももっと知られてよいと思う。ただ、現在の韓国(北朝鮮も?)では漢字を廃除してハングルのみの表記を基本としているそうだが、本来漢字圏にもかかわらず漢字の豊かな世界を廃除するのはもったいない気もする。その原因が、占領時代に漢字を含めた日本語を押し付けた経緯もあったとも聞くが、是非漢字も一緒に使うことを再考してほしいところだ。

『諜報の天才 杉原千畝』(新潮選書)

2011-05-01 08:08:00 | 
 本の題名から、もしかしてこれまで認識していた杉原千畝像が変わってしまうのかも知れない、と危惧しながら読んだが、結局杉原千畝のヒューマニストたる面の印象はさして変更を迫られなかった。というか、杉原氏のヒューマニストたる一面は、あまり本書のテーマではないのだ。変わったとすれば、命のビザが守った敵はナチスではなく、ソ連からユダヤ人を守ったという点だろう。さんざん繰り返されているのは、杉原氏が諜報(インテリジェンス)について極めて有能であったとの話であり、戦前の日本外交において、結果として有能な情報士官(杉原氏を含め)の情報が必ずしも有効に用いられなかった点が日本の悲劇に大きく影響したとの内容だ。


 興味深かったのは、まさに命のビザを発給しながら、外務省にそのビザを安易に無効とさせないための工作を並行して行っている点だ。有能な情報士官は、本省にも全て手の内を明かさない面もあるそうだ。その意味で、同様のことが以前にもあったことが触れられている。ソ連に外交官として赴任を命じられたのにソ連からビザが発給されなかったことがあって、その理由は、杉原千畝氏に白系露人(反共産)の情報ネットワークの存在があることをソ連側が疑ったためだが、杉原氏は自国日本の外務省に対してもそのようなネットワークはない(実際には過去に白系露人の妻がいたくらいだから、ネットワークはあったはずと本書では指摘している)と答えたそうだ。有能な情報士官は、本省に対しても全ては開示しないという。しかし、結局それも究極的には国益のためだというのだが。


 本書は基本的に情報士官としての千畝氏にスポットを当てているので、杉原千畝氏の生涯の全てを描いているわけではないし、ビザを発行している最中の人道的なエピソードなどはほとんど書かれていない。さらに、著者は外務省内部の人だから、戦時中は不問にされたビザ問題が戦後に問題とされて杉原氏が外務省を辞めた経緯や、最近になってその名誉回復が図られた点までは触れられていない。しかし、杉原千畝氏という人物をより深く知るためには良い本だと思った。