哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

池田晶子さんの「ズバリ言うわよ!」③生活=存在

2005-11-16 02:28:09 | 哲学
『考える日々Ⅲ』の「ところで、生活はどうするのですか」から、要約しつつ抜粋してみます。

「一般の人々を相手の小さな勉強会で「哲学とは何か」を話してほしい、と乞われることがある。考えることがこういうことであるということなら話せますとして、出かけて行って、いつものように話す。死ぬとは何かをわれわれは知らないのだから、生きるとは何かということも実は知らないのである。知らないにもかかわらず、なぜわれわれはそれを知っているかのように生きているのか。生きるとは一体どういうことなのか、それを考えることを「考える」と言い、「哲学」と言ってもかまわない。
 皆さん、ほーほー、はーはー、と熱心に聞いてくださる。なるほど、わかりました。生きるとはどういうことなのかを考えることが哲学なのですね。ところで、生活はどうするのですか。
 この種の質問をいただく時のトホホな感じ、脱力徒労感というか、きっと泣き笑いのような顔をしているに違いない。
 だからその、「生活」すなわち「生存」すなわち「存在」とは何か、を考えることが、それを考えることだと言っているのですよ。
 私は懸命の説得を試みるのだが、じゃあ先生はどうやって生活なさってきたんですか、といった質問に至っては万歳、全面降伏である。なんで生活がそんなに大切なのか!
 なるほど、生活は生活で誰もが大変なことである。しかし、生活が大変なのは、必ずしも社会のせいではない。それは自分が生存しているからである。したがって、生存すなわち存在とは何か。
 こういう筋道によって、考えることは開けてゆくのである。生活するために考えるのではない。生活するとはどういうことかと考えるのだ。この世に生活するほとんどの人が、哲学教授も含め、ここのところ見事に転倒している。転倒したまま、その生活人生を終えている。」(『考える日々Ⅲ』P.162~164)

 死ぬとは何かをわれわれは知らない、と最初の方にあるのは、死体は見たことがあっても、死そのものを見た人も経験した人もいないのだから、誰も死ぬということを知らない、ということを言っています。ソクラテスも同じ事を言っているそうです。
 そういえば、ソクラテスの「人は食べるために生きるが、私は生きるために食べる」との言い方を言い換えれば、池田晶子さんの今回のような文章になるのかも知れません。