哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

悠久の大義?

2011-11-27 22:07:07 | 時事
 新聞の文化欄で、ある文芸評論家が掲題について3.11に関連してエッセイを書いていた。「悠久の大義」とは何かとして、それを「二千六百年の日本人の歴史の絶対」と書いてあった。それに続いて、以下のような文章があった。

「人の生き方の巧拙ということは、究極の生き甲斐からすれば、すべて二次的な処生の方法にすぎない。情勢論というものは、この処生の方法の拡大、普遍化したものである。国家的情勢論も、社会的情勢論も根は一つである。
 だから敗戦直後、小林秀雄は「近代文学」同人との座談会で言ったのである。「利巧な人はたんと反省するがいい。僕は馬鹿だから反省なんかしない」」(日経新聞11月20日より)


小林秀雄氏のこの言葉はあまりにも有名なようで、いろんな人が取り上げる。この小林秀雄氏の有名な言葉を、池田晶子さんが取り上げた文章を見てみよう。


「現在という価値に生きることをせず、それを解釈することに我を忘れている評論家的心性だけが、したがって逆に、現在という時代の歴史的意義といった空言を弄することになる。「利巧なヤツはたんと反省するがいい。俺は馬鹿だから反省なんぞしやしない」という小林秀雄の名セリフは、こういった連中に向かって吐かれたものだが、当然のこと、この強烈な皮肉は通じなかった。戦争の時代には戦争を生きるしかないという当たり前が、わからないのである。歴史を反省するより先に、何でも時代のせいにする自分を反省するべきであろう。そうでなければ、反省するということの意味がわからなくなる。」(『新・考えるヒント』「十二 歴史」より)

「人が自分の人生をもったのと同じ仕方で、人類は人類の人生をもった。それが歴史というものだ。自分の人生を思い出そうと後ろを振り返ると、人類の人生が大きく視野に入ってくるようになった。歴史を改竄するのしないの責め合っている人々には、普遍的自己としての歴史を思索するこの醍醐味はわかるまい。
いみじくも、小林秀雄は言った。「利巧なヤツはたんと反省するがいい。俺は馬鹿だから反省なんぞしやしない」。
この強烈な皮肉が、皮肉であるとわかるなら、教科書で教えられる歴史などいずれにせよ歴史ではないと、同時にわかるはずなのだが。」(『勝っても負けても』「自分で歴史を思い出せ」より)


さて、小林秀雄氏のこの言葉は、新聞と池田さんとでどう捉えられているだろうか。少なくとも池田さんは、日本人の歴史の絶対とは考えない。そう考えてしまうと、小林氏の言葉は戦後の引っくり返ったイデオロギーに抵抗して言っていることになってしまう。新聞の評論家は、それが処世や情勢を超えた大義と言いたいのだろうが、池田さんの言っているのは歴史そのものの捉え方であり、日本人にとどまる狭いことを言っているのではない。つまり池田さんに言わせれば、新聞の記事は皮肉の通じていない一例になってしまいそうだ。


日めくり池田晶子 50

2011-11-20 19:10:10 | 哲学
 池田晶子さんの代表作の一つであるソクラテスシリーズの中でも、ごく普通のサラリーマンがこぼしそうな言葉にするどく切り込んだ今回の文章は、哲学の論理と日常の会話のような言葉とのギャップが大変面白い。酒好きな池田晶子さんと居酒屋で飲んだら、きっとこんな会話になるのだろう。




50 人生は理屈以外の何ものでもない。



ソクラテス 君は、君の人生で、したいことをしていないと言うんだね。
サラリーマン 当たり前じゃないですか。世のサラリーマンで、したいことをしているなんて言えるヤツがいたらお目にかかりたいですよ。したいことをする自由がないのが、サラリーマンというものなんです。
ソクラテス それなら、やめちゃえばいいじゃないか。
サラリーマン またそういうことを-。これだから自由業のヤツとは話が合わないんだ。
ソクラテス そうかね。それで僕は、君がしたいことをする自由がないというから、したいことをするためにそれをやめる自由が、君にだってあるじゃないかと言ったんだが。
サラリーマン そりゃあ理屈ではそうですよ。でも家族の面倒はどうするんです。
ソクラテス 君が責任もって面倒みるんだよ、当たり前じゃないか。
サラリーマン それが大変なことなんです。私ひとりならまだしも、私の年齢で組織を離れて、家族に人並の生活をさせるのは並大抵のことじゃないんです。貴方はほんとに何もわかっちゃいないんだから。
ソクラテス それなら家族を捨てちゃえばいいじゃないか。
サラリーマン まったくもう-。
ソクラテス じゃあ、逆に僕から尋ねるけどね、君が所帯をもったのは君の意志だね。
サラリーマン 意志だなんて御大層なものが、あったのかどうか。まわりが皆そうしているから、何となくそうしただけですよ。
ソクラテス しかし、そうしないこともできたのに、そうしたんだから、それは君の意志だね。
サラリーマン まあ、言い方なんて、どっちでもいいですけどね。
ソクラテス 子供を作ったのも君の意志だね。
サラリーマン 意志も何も、出来ちゃったものはしょうがないでしょう。
ソクラテス しかし、作らないことを意志することもできたんだから、やはりそれは君の意志だね。
サラリーマン まあ、そう言っても構わんですけどね。
ソクラテス 所帯をもったのも、子供を作ったのも君の意志、そして、それを捨てることができるのに養うことを現に選んでるんだから、これも意志だ。すると、君の人生は何もかも君の意志どおりに動いてきてるじゃないか。
(『帰ってきたソクラテス』「不平不満は誰に吐く」より)


ギリシャの民主主義

2011-11-13 01:34:34 | 時事
少し前まで、連日のようにニュースではアテネから中継があった。あのパルテノン神殿もよく映った。哲学の歴史に何かしら興味があると、パルテノン神殿は映像としては感慨深いが、ニュースの中身はかなり深刻である。


ギリシャ首相が一旦は打ち出した国民投票を、さらに撤回するという経過があり、そしてそのぶれる態度を批判されている首相が議会でかろうじて信任されたが、結局辞任して連立内閣を作るという。ギリシャの混乱は欧州全体の混迷と同じ意味を持ち、さらにイタリアにも飛び火しているというから、ユーロ圏としての経済危機はますます深まっているようである。


それにしても、政策の決定を国民投票で問うことほど民主主義に適うことはないはずなのに、それを行わないことを先進国たる民主主義国家達が脅してても止めさせようというのだから、民主主義政治について、つまりは国民の政治判断に対して、政治家は実は十分には国民を信頼していないのではないかということを、図らずも露呈したことになる。


確かに国民投票で、国民自身が生活を極端に悪化させる条件を多数決で受け入れるか否か、というと、かなり困難な気はするが、これはやってみないとわからない。ただ、ギリシャでは財政について政治家が国民を騙していたというのだから、この怒りだけでも単純には行かなそうだ。


どんな政治体制よりも民主主義はましとされていたはずだが、端的に言えば、自分たちのことは自分たちで決めるのがもっともよいという価値観である。しかし、その国民の判断が歴史的に正しいとは言えないこともあることは、ナチスなどの歴史が証明している。多数決の判断が常に正しいとは限らないということだ。やはり、専門のことは信頼できる専門家に任せるという方が理にかなっているように思える。しかし、専門家選びに国民が失敗したら、それは結局間違った政治になるだけであるから、結局のところ、間違った政治になるかならないかは同じ事かもしれない。

なんのことはない、民主主義そのものが原理的にそういうものとしか言いようがないのだ。




なでしこ紫綬褒章

2011-11-06 01:59:01 | 時事
 まだW杯優勝や五輪出場に酔いしれている感じだが、国民栄誉賞に加えて、なでしこジャパンに紫綬褒章が与えられるという。震災で大きな打撃を受けた日本にとって、勇気を与えたということからだろうか。きっと年末の紅白歌合戦まで、まだまだ余韻を引っ張りそうだ。


 W杯優勝時には多くの記念保存版のなでしこ特集誌が発行されていたが、立ち読みしていて唯一共感したのが、ナンバー誌の特集冒頭記事であった。これまでの海外の日本人選手の活躍を、異常に偏重して報道するメディアの態度を批判していたのだ。逆になでしこ優勝については、そういうメディア以上に褒め称えている。確かに、アジア初の優勝が、他のアジア国にも好影響が出ているとの報道もNHKであった。


 しかし、ここは立場を変えて考えてみたい。日本人には是非アメリカの立場でこの試合をもう一度トレースしてみてほしい。前半かなり押し気味だったのに、点が入らず、後半でやっと実力差を見せつけて先取点を獲得したが、最終的に同点とされてPK戦となってしまった。PK戦もあと一歩のところで運を逃したように負けてしまった。実力は明らかに日本より上だし、戦いぶりも悪くなかったのに、ほんの少しの運の差で優勝を逃したのだ。


 つまりアメリカもよく戦ったことがよくわかるし、勝者を褒め称えることは、敗者も褒め称えることであることに気づく。上述のナンバー誌の特集冒頭記事でも、ワンバック選手の名前も日本人の記憶に刻まれたはず、と書いている。

 そして戦いが終われば、やはりノーサイドであり、優れた敗者あっての素晴らしい勝利であることを自覚すべきなのだ。勝者の国が自国側の勝利にばかり酔いしれているのはあまりに一面的であり、一面的な見方になってしまう弊害は、過去の戦争の歴史においても反省すべきであることはわかっているはすだ。


 スポーツは所詮スポーツであるが、オリンピックもサッカーも何か間違うと代理戦争のような様相を呈す。だからこそノーサイドの精神を、常に忘れるべきではないと思う。讃えるべきは最終勝利よりは、お互いの健闘なのであろう。池田晶子さんが常々言っている通り、何者でもない者同士いかなる理由で戦うのか、ということである。