養老孟司さんの話で、翌年の講演スケジュールの打合せの際「生きていればやりましょう。」と言うと、たいていの担当者が笑うそうで、「ああ、この人は来年も確実に生きていると思っているんだなあ。」と苦笑したという話がありました。
このあたりの死に関する話は、池田さんの言葉とかなり共鳴します。池田さんの『残酷人生論』の冒頭の「死はどこにあるのか」から、少し要約しつつ抜粋します。
「人生の意味と人は言うが、人生が一度限りであるということを前提にその意味を求めようとするならば、生における死の位置を明確にすることなしには、それは不可能だ。
ならば死はどこにあるのか。生を生たらしめているものは、生ではないものすなわち死である。瞬間瞬間の生を瞬間瞬間の生たらしめているのは、瞬間瞬間の死である。だから死は今のここにある。
ところで「ここ」とはどこか。「ここ」と言うとき、そこはもうここではない。「ここ」なんてどこにもない。だから死はない。したがって生もない。
これがたいていの人は、生は確かで、死はなんとなく先のことと思っている。」(『残酷人生論』P.13~15)
今ここにある死と題名をつけましたが、池田さんの文では、「死はない、したがって生もない。」という話になっています。要するに、生も死も人はわからない、わからないのにわかったように人生の意味を問うことができるのか、と言っているのだと思います。決して人生の意味を問うことを無駄と決めつけているわけではありません。
どうせいつ死ぬしかわからないのだから好き勝手に生きよう、と人が思うとすれば、池田さんはそれこそ、勝手にすればよい、と言うでしょうが、その真意は、死ぬことすなわち生きることを知らないで意味を求めたり意味を放棄することをおかしい、と言っているのだと思います。
このあたりの死に関する話は、池田さんの言葉とかなり共鳴します。池田さんの『残酷人生論』の冒頭の「死はどこにあるのか」から、少し要約しつつ抜粋します。
「人生の意味と人は言うが、人生が一度限りであるということを前提にその意味を求めようとするならば、生における死の位置を明確にすることなしには、それは不可能だ。
ならば死はどこにあるのか。生を生たらしめているものは、生ではないものすなわち死である。瞬間瞬間の生を瞬間瞬間の生たらしめているのは、瞬間瞬間の死である。だから死は今のここにある。
ところで「ここ」とはどこか。「ここ」と言うとき、そこはもうここではない。「ここ」なんてどこにもない。だから死はない。したがって生もない。
これがたいていの人は、生は確かで、死はなんとなく先のことと思っている。」(『残酷人生論』P.13~15)
今ここにある死と題名をつけましたが、池田さんの文では、「死はない、したがって生もない。」という話になっています。要するに、生も死も人はわからない、わからないのにわかったように人生の意味を問うことができるのか、と言っているのだと思います。決して人生の意味を問うことを無駄と決めつけているわけではありません。
どうせいつ死ぬしかわからないのだから好き勝手に生きよう、と人が思うとすれば、池田さんはそれこそ、勝手にすればよい、と言うでしょうが、その真意は、死ぬことすなわち生きることを知らないで意味を求めたり意味を放棄することをおかしい、と言っているのだと思います。