哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

ウエストワールドとコメット

2007-05-27 02:44:20 | 時事
 安全であるはずの遊戯具が危険なものと化したエキスポランドの事故は、社会に強烈な衝撃を与えたようです。

 この事故で思い出したのが、安全であるはずの娯楽施設が殺戮の場と化す内容で昔ヒットした映画「ウエストワールド」です。こちらはロボットによる人間への反乱というSF的テーマもあるのですが、人間が完全にコントロールできると思っていたにもかかわらず、ロボットが制御不能になっていく過程は、全てをコントロールできると過信した人間の傲慢さ・浅はかさを思わせます。

 同じように、人間の科学技術に対する過信が危険をもたらした実例の一つとして、世界最初のジェット旅客機であるコメットの墜落事故があります。こちらは最初の墜落の原因が究明できないまま運行を再開して、同じような墜落事故をさらに発生させ、いずれも乗客乗員数十人が死亡するという、技術過信と見通しの甘さを露呈した事故です。結局、墜落原因は機体にかかる圧力が予測をはるかに超えていたことでした。

 現在はジェット旅客機はかなり安全なものと見られていますが、もちろん未知のことが発生しても決しておかしくはありません。


 池田さんは、科学の視点というのは一つの見方にしか過ぎないとよく書いておられました。また、人間にとって科学的に解明できないものがあっても全くおかしくはないとも。

 科学技術の進歩は無限のように思えても、人間自身は昔も今も変わりようがないわけですね。科学の進歩は好奇心の賜物ですし、哲学の探究心とも共鳴するところがあるように思いますが、科学の視点の限界は哲学的に考えるしかないように思います。

『イスラーム文化』(岩波文庫)

2007-05-20 00:00:01 | 時事
 今回は、以前の話題に関連して宗教関係のお話にさせていただきます。

 イスラム教がどんなものなのか、なかなか仏教やキリスト教ほどにも知られていませんし、さすがに池田さんの本にもイスラムについてはあまり触れられていなかったと思います。
 そして報道を見れば、アフガニスタンの仏像爆破や過激派の自爆テロなど、イスラムが不寛容な宗教と思わされがちな情報が多いように思います。一方で、例えばエジプトにおいては各宗教が共存していて、祝いの日にはイスラム教の幹部が古代キリスト教系であるコプト教の教会に礼拝するなど、寛容な面もあったりします。

 一体イスラム教とはどんな宗教なのか。イスラム教について少しでも知っておくことは、人間の本質を考えることにも寄与するのではないかと思い、たまたま見つけた表題の本を呼んでみました。この本は講義録なので大変読みやすく、イスラム教とはどんな宗教なのかを手っ取り早く知るには大変良い本だと思います。


 読んでみて一番驚いたのは、イスラムの唯一神アラーはユダヤ教やキリスト教と全く同一の神であり、イスラム教においてもモーゼやイエスは預言者の一人だということです。つまり、ユダヤ教→キリスト教→イスラム教と、一本の流れを持った宗教なので、いわばユダヤ教やキリスト教の土台のうえにイスラム教が成り立っているわけです。実際に少しコーランを読んでみましたが、ユダヤ教やキリスト教の話が繰り返し出てきます。

 要するにイスラム教としては、せっかくモーゼやイエスに預言してやったのに、結局ユダヤ教徒やキリスト教徒は唯一神の預言にきちんと従わなかった。だから、イスラム教徒として唯一神アラーをに従うことが最も優れていることになる、というわけです。


 結局、ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も、極論を言えば一つの宗教なのですね。これらの宗教同士の戦争も、同じ一つの宗教の中で争いをしていると言っていいのかも知れません。

 そうすると、同じ神を信仰する者同士いかなる理由で殺し合うのか、と池田さん風に言えてしまうのかも。

「ハケンの品格」(民放ドラマ)

2007-05-13 00:00:10 | 時事
 ちょっと古い話ですが、民放ドラマの話です。

 ドラマはNHK大河以外はほとんど見ないのですが、「ハケンの品格」は人から薦められて、途中から見ました。娯楽的ドラマに変わりはないとは思いますが、最終回に主人公が発した言葉「働くことは生きることです。」がなぜか、多くの人に感動を与えたということを聞いて、ちょっと考えました。


 そもそも働こうが働くまいが、死ぬまでは生きるしかないのが人間なので、何か特別なことを言っているのだろうか?とは思いましたが、おそらくこの言葉の前提としては、「どうせなら働かずに楽して生きたい。働かないで食っていける方がよい。」というものがあるのかもしれません。それに対して「働くことは生きることです。」とは、甘えてはいけない、働き甲斐を見つけなさい、という教訓的・道徳的ニュアンスがあるように感じられました。


 「楽して生きる」ということに何の価値も認められないことは、池田晶子さんが常々書いておられたことです。「生きる」ことに価値があるのではなく、「善く生きる」ことこそ価値があるのでした。

 そして働くことは、それが「働かなければ食えないから」というように生活の糧を得るのが目的であれば、それは「食うために生きる」のであって、単に「生きる」ことと変わらなくなります。


 池田さんは、プロとは仕事に覚悟を有する人と定義づけました。単に生存することよりも、生きて何をするのかが重要なのですね。それを前提に最初の言葉を考えると、「働くこと」が「善く生きる」ためであること、であれば、より肯定的にとらえることができます。

 あえて言い換えれば、「覚悟をもって働くのであれば、それこそ善く生きることである。」ということでしょうか。

中島義道さんの池田晶子追悼文(新潮45)

2007-05-06 08:54:30 | 知識人
 久里浜@さんに教えてもらった新潮45の記事を少し紹介します。ランティエの追悼文同様に立ち読みで済ませようと思ったら、4ページもあったので、つい買ってしまいました。


 中島さんにとって、池田さんも参加されていた「大森会」での池田さんの思い出が二つ、ネガティヴなものがあるそうです。

(その1)「彼女はいつものように机にうつ伏せになって、周囲のカンカンガクガクの議論から遠く離れてひとり遊泳しているようであったが、「痛み」の議論の最中すっと頭を上げて、(池田さんが)次のように発言した。「歯が痛いとき、その痛みをじっと見ている自分がいる」 場違いな発言で、みな瞬時うろたえた。・・・(某氏)が「そりゃ、あんまり歯が痛くないからじゃないの?」とチャチャを入れると、みな爆笑し、それでその話は終わった。」

(その2)「同じような彼女の発言に対する「無視」が大森先生自身の口から発せられた。池田さんがメルロー・ポンティの言葉を引用して何かを語った。そのとたん、大森先生が「それはメルロー・ポンティの誤解です」と答え、やはりみなワッと笑って終わりとなった。」


 中島さんの文章では、その1の方は池田さんの低級なしろうと発言に対して周囲が苦慮したことが書かれ、その2では池田さんの哲学に対する態度が周囲にとってカチンと来るものがあった、と書かれています。池田さん以外の方々(中島さんも)の態度は、いかなる権威をも足蹴にする、少なくとも尊敬しないという雰囲気を共有していたが、池田さんは違っていたというのです。

 その1は議論そのものがよくわからないので何とも言えないのですが、その2については、中島さんらと池田さんとは、権威を足蹴にする態度が違っていたのか、あるいは池田さんは権威の一部を足蹴にしなかったか、というように態度が違っていたようです。


 しかし池田さんの本を読んでいると、池田さんが権威の皮を借りるような態度は全くないので、その点で中島さんらとそんなに態度が違うのか?とちょっと不思議な感じがします。池田さんこそ哲学の権威にすがることなく、「自分で考えよ」と常々書いておられるからです。

 ただ池田さんも若いころだったわけで、その後と態度がもし違っていてもおかしくはありません。そんなことは今さらどうでもよく、今は残された池田さんの文章をもとに、私たち自身が「考えて」いけばいいのですからね。