哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

『宇宙になぜ我々が存在するのか』(ブルーバックス)

2013-02-21 02:31:31 | 科学
表題の本は、最近のベストセラーだというし、いかにも哲学的な題名に惹かれて読んだ。副題が、最新素粒子論入門とあったが、結論から言うと副題が正確であり、何ら哲学的話題は書かれていない。そういう意味では、以前紹介した『我関わる、ゆえに我あり』ほどのワクワク感はない。ただ、宇宙の起源の解明のための最新の素粒子論を、素人向けに解説したものであり、それ以上のものではない。

簡単にいえば、宇宙は最初のインフレーション後にビッグバンが発生して、137億年かかって膨張してきたわけだが、最初に物質と反物質が同時にできたはずなのに、宇宙に物質のみが残った原因としては、素粒子のうちのニュートリノやヒッグス粒子などを解明すればわかるであろうというのが、最新素粒子論だそうだ。

素粒子を解明すれば、なぜ宇宙が存在したかがわかるというような書きぶりだが、もちろん池田晶子さんがよく書いているとおり、素粒子を解明して反物質が消えた原因がわかっても、素粒子や宇宙そのものが「なぜ」存在するのかという哲学的問いには答えられない。宇宙において、人間や地球上の生物の材料が作られた科学的原理がわかっても、さらになぜ地球上に生物が発生して進化したのかという、存在論的問いにも答えはでない。素粒子に生物のDNAまで盛り込まれていたというのだろうか。そうであっても「なぜ」そうなのか、は科学の世界で答えは出ないだろうし、哲学的に問うても、人間にとっては「わからない」としか言えないままかもしれない。

宇宙は一体何を考えているのか。その考察の一端緒としては参考にはなる本かもしれないが、哲学的にはますます根源的な疑問が膨らんで行く。

『イエスという男』(作品社)

2013-02-09 19:39:59 | 
『寅さんとイエス』を読んでしまうと、どうしても表題の本を読まざるを得ないように思ったので、読んでみた。

イエスキリストが実際にどんな人物で、実際にどんな言葉を話したのか、については「史的イエス」として従来から論議されていたようで、類書も多いそうだ。この本は、キリスト教の教義や、現代的な思考に引っ張られがちな解釈の誤りについて細かく指摘しながら、イエスの真実像に迫ろうとしている。類書に対する反論の部分が多いので、少し本論から外れる記述が多いように思うが、それでも時代を踏まえた丁寧なイエスの実像に迫る著者の姿勢には真摯なものを感じる。

例えば、右の頬を殴られたら左の頬もむけて殴らせればよい、という言葉について、吉本隆明氏が「これは寛容ではなく、底意地の悪い忍従の表情である」と指摘することを、全くそのとおりだとする(但し注で、後の吉本隆明がどれほど愚劣になったとしても、と書かれている)。当時肉体的に実際にしばしば殴られているのは、奴隷や下層階級の者であり、その者たちにとって黙って殴られるのは安全を意味するという(反抗すれば、もっとひどい目にあうか、殺される)。つまり、上記のイエスの言葉は、屈従せしめられた日常生活の憤りとうめきを、とげのある皮肉にくるんで表白しているというのだ。

この本の帯には、イエスはキリスト教の先駆者ではない、歴史の先駆者である、と書かれており、最初はどういう意味かわからなかったが、読み進めていくうち、イエスが常に虐げられた人々の立場にたち、ユダヤ教支配層を批判する行為を行っている事実から、徐々に理解が深まる。イエスも時代を生きているから、その限界はあるにせよ、虐げられた人々や病人のために行動し、そしてそれは権力に対する反抗となっていった。殺された原因においては、なんとなくソクラテスに近いものを感じる。

ところで、池田晶子さんがイエスについて語る際によく引用する「敵を愛せ」という言葉は、この本ではどう扱われているか。著者によれば、この言葉もイエスお得意の逆説的反抗として語られたという。前提として、隣人を愛せ、という際の隣人とは、ユダヤ教では狭い範囲に限定した意味だそうである。

「「隣人を愛せ」という主張はおのずとその影として、「敵を憎め」という主張をともなわざるをえないではないか。あなた方はそれを意識していないだけだ。表にかかげる理念の影に、無意識に何をかかえこんでいるかが問題なのだ。だからこそ、あなた方にはっきり言ってやる。そうではないのだ、敵をこそ愛せ。
この言葉は、支配権力が「敵」をつくり出すことによって、人民をみずからの支配下にかかえこむことに対する逆説的反抗として、このように言われてこそ意味を持つ。」(P.50)

人間としてのイエスが本当に発した言葉は、けっして哲学的とは言えないそうだが、人々が熱狂した痛快さが随所にあるようである。