今回の書評対象は、玄侑宗久著『死んだらどうなるの?』であった。しかし、池田晶子さんの文章は、書評とも言い難い、「驚き」の言葉から始まる。
いきなり冒頭から、「禅僧が科学を使用して死後を説明するのを、私は初めて見た。びっくりした。はたして、本気だろうか。私はますそれを疑った。」とある。そして、読み終えた後の感想として、「読者は本書を本気で読んではいけない。これは禅僧である著者が、現代科学の愚鈍を笑いつつ、読者をだまくらかしてやろうと諧謔で語った本である。言われていることすべて、ひっくり返して読むがよろしい。それが著者の本意であるに違いない。」と書いているのだ。
池田晶子さんのこの後者の文章は、まさにそれこそ諧謔であることは明らかであろう。この本の著者が実際には徹頭徹尾“諧謔”で本を書いているわけがないので、池田さんは内容が全く信じられないとして驚き、この本は読むに値しない(とは明言していないが)と暗に言っているのであろう。そのように池田さんが思う大きな原因が、著者が禅僧であるにもかかわらず、禅の本来の考え方で書いていないからのようだ。池田晶子さんの文章をもう少し引用してみよう。
「「意識は脳が生み出す」とも、平気で言われている。大したもんである。どうせ嘘をつくのなら、ここまで徹底してつかなければならない。話というのは、どっかから始めなければ、始まらないからである。全くのところ、意識は脳が生み出したものなら、全宇宙が脳の産物であるわけで、それならやっぱり死後なんてものも脳による妄想である。今さら何が問題であろう。
こういったことを説明し始めると収拾がつかなくなるから、だから禅というのは説明をしないのである。黙るのである。黙って、観るのである。宇宙を、存在を、生と死の謎を、問いと答えが同一である地点を、永遠に観ているのである。」
禅の考え方は、科学の狭い考え方よりはるかに広く根源的で、だからこそ哲学と親和性があると池田晶子さんは考えている。だから、禅僧の書いているにもかかわらず、まったく禅的でない上記の本を池田さんは許容しがたかったのだろうと思う。
いきなり冒頭から、「禅僧が科学を使用して死後を説明するのを、私は初めて見た。びっくりした。はたして、本気だろうか。私はますそれを疑った。」とある。そして、読み終えた後の感想として、「読者は本書を本気で読んではいけない。これは禅僧である著者が、現代科学の愚鈍を笑いつつ、読者をだまくらかしてやろうと諧謔で語った本である。言われていることすべて、ひっくり返して読むがよろしい。それが著者の本意であるに違いない。」と書いているのだ。
池田晶子さんのこの後者の文章は、まさにそれこそ諧謔であることは明らかであろう。この本の著者が実際には徹頭徹尾“諧謔”で本を書いているわけがないので、池田さんは内容が全く信じられないとして驚き、この本は読むに値しない(とは明言していないが)と暗に言っているのであろう。そのように池田さんが思う大きな原因が、著者が禅僧であるにもかかわらず、禅の本来の考え方で書いていないからのようだ。池田晶子さんの文章をもう少し引用してみよう。
「「意識は脳が生み出す」とも、平気で言われている。大したもんである。どうせ嘘をつくのなら、ここまで徹底してつかなければならない。話というのは、どっかから始めなければ、始まらないからである。全くのところ、意識は脳が生み出したものなら、全宇宙が脳の産物であるわけで、それならやっぱり死後なんてものも脳による妄想である。今さら何が問題であろう。
こういったことを説明し始めると収拾がつかなくなるから、だから禅というのは説明をしないのである。黙るのである。黙って、観るのである。宇宙を、存在を、生と死の謎を、問いと答えが同一である地点を、永遠に観ているのである。」
禅の考え方は、科学の狭い考え方よりはるかに広く根源的で、だからこそ哲学と親和性があると池田晶子さんは考えている。だから、禅僧の書いているにもかかわらず、まったく禅的でない上記の本を池田さんは許容しがたかったのだろうと思う。