哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

子を殺害する親

2012-09-26 02:31:00 | 時事
我が子を放置して死なせるという事件が、最近もよく報道されている。夏の暑い時期にパチンコ店の駐車場内の車に放置されて熱射病で死亡したとか、そもそも幼児の世話を放置して死なせたとかあるが、とくに目立つのが、パチンコにのめり込んで子供を放置するケースだ。両親がパチンコに行っている間、幼い子供たちが何かを触っていて火事になって焼死したケースもあったように思う。

パチンコにそこまでのめり込むというのが、いかにも人間らしいのだが、この何かに異常にのめり込むということは、パチンコに限らず人間の習癖のようだ。かつてカジノにのめり込んだ大会社の御曹子が居たが、とくにギャンブルは人間にとってめり込み易いものなのだろう。ただ、ギャンブルは競輪競馬のように男性がのめり込むケースが多いように思っていたが、なぜかパチンコにはまるのは女性も結構多いようだ。そして子育てよりもパチンコに興じる姿は、人間だからこそできる行為である。


人間だからこそ子どもの虐待という異常行為を行うということを、池田晶子さんは次のように書いている。


「あれら虐待する親たちを指して、「人間ではない」と人は言うが、これは逆なのである。人間だからこそ、あのような所行が可能なのである。もしも人間が完全に自然的な存在であり、その自然にまかせて子供を作ったのなら、やはりその自然にまかせて子供を育てるはずなのである。
けれども、人間は半端に自然を脱した存在だから、自然ではあり得ない勝手なことを、意志と称してあれこれ仕出かす。しかし、自分が何をしているのかを理性により自覚しないそのような人間は、だからなるほど未だ人間ではない。しかし動物でもない。何かそのような異種動物的人間が存在するから、人間社会は責任という人為的概念を必要とするのである。」(『41歳からの哲学』「虐待するなら子供を作るなー親」より)


このあとの文章で池田さんは、親である資格がないというなら性交する資格をこそ問うべきであろう、と書いている。確かにそう言えてしまうのは面白いが、何か人間は根本的に間違っている存在なのではないかと思えてしまう。しかし、それでも性交をも資格化するような理性によってしか、本当の人間らしい人間社会を作る方法はないようである。そうしなければ、いつまでもパチンコに興じて子育てをしないままであることが目に見えている。




反日デモ

2012-09-18 23:43:23 | 時事
中国の反日デモが激しいという。尖閣諸島の問題だけではなく、中国現政権に対する不満もあるというが、直接的には、日本のものだとわかるものが暴力の矛先になっているそうだ。だから、日本食の店が中国国旗を店頭に掲げたり、日本を表すデザインを隠したりしているという。日本車のボディに、魚釣島は中国のものだ、というシールを、お守り替りに貼っている映像もあった。


さらに、日本人が殴られたという報道もいくつかあったが、いずれも「日本人か?」と聞かれて、殴られているというから、何となく可笑しく感じる。報道では、その日本人がどのように答えたかは明らかではないが、聞かれたからには日本人とわかる反応をしたのだろう。逆に言うと、日本人かどうかを聞かないとわからなかったわけだから、わからないままだったら、暴力を振るいようがないわけだ。


目の前の人物に何か復讐の思いがあるわけでもないにも関わらず、日本人というレッテルが貼られることによって暴力を振るうとか、もしかしたら壊された商品も中国製かもしれないのに、日本というレッテルがあるから壊すとか、一体何に対して暴力を向けているのか。「日本」というレッテルでしかない空虚なものに暴力を向けているのであれば、実はその行為自体が虚しく空を切っているだけではないのか。


中国は確か50もの少数民族がいるそうだから、そのアイデンティティーの在り方も、中国という国家の中で一様でもないのだろう。民族というのは一応血のつながりだが、国家としての「中国」というのはそれを覆うレッテルでしかない。かつて(今も?)ユダヤ人が、ユダヤ人というだけで攻撃を受けたが、ユダヤ人というのはユダヤ教を信奉する人を指すから、血のつながる民族でさえない。いわば宗教のレッテルでしかないわけだ。国家や民族というレッテルに左右されて無意味な争いを続けている事実に、もっと人は気づくべきなのだろう。


日本人も中国人も、国家に帰属する以前に、何にも属さない人間であることに気づけば、何者でもない者同士一体何のために戦い合うのか、という言葉に行き着く。かつてこのようにかたった池田晶子さんは、きっと今回も同様のことを仰ったであろう。




戦場ジャーナリストの死

2012-09-11 07:21:51 | 時事
シリアで起きた、日本人の戦場ジャーナリストが殺された事件について、報道も一区切りついたのか、あまりメディアで関連ニュースを見ることも少なくなった。

当時の報道によると、シリア政府軍は外国人記者を標的にすると決定したといい、しかも残された映像についての報道によれば、政府軍の案内役らしき男性が「日本人だ!」と叫んだ途端に発砲されたそうだ。流れ弾とかではなく、まさに狙われて殺されたということだという。今年においてもシリアでの外国人ジャーナリストの死亡が相次いでいるそうだから、その危険度は半端ないものなのだろう。

シリア情勢について、もっとも無念に思うのは、国連が期待された役割を果たせなかったことだ。その原因は、安保理での大国の足並みが不揃いであることから発しているが、シリアに関する決議について拒否権を発動したロシアと中国について一方的に非難すればよいという話ではない。ただ、国連は平和のための機関であるものの、1国の内戦がエスカレートするまま止められない現状によって、所詮そんな程度でしかなかったと思わざるをえない。果たして人類は進歩しているのか。


国際政治について池田晶子さんは「他人事」のように語るが(「他人事の最たるもの-国際政治」『41歳からの哲学』)、一方で9.11テロ直後にアメリカに渡ろうとする友人夫婦の話を紹介しながら、次のようにも書いている。


「彼らにとっては、世界とは自分なのである。全人類が自分なのである。だから、そこで何かが動いている、何かが変わろうとしているなら、一緒に働き、一緒に変わってゆかざるを得ないのである。それで、そこにどうしても引かれてしまうのである。ジャーナリストの人々なども、悲愴な使命感によって、これと似たようなことを言うけれども、それとは違う。あの人々は、自分と世界とは別のものだとやはり思っているから、悲愴な使命感にもなるのだが、そも自分とは世界であるなら、そんなものはもちようがない。「自分が何かをする」という意識が、彼らにはもはやないのである。」(『ロゴスに訊け』「世界は神々の遊戯である」より)


紹介した文章の末尾には「自分に悪いことは他人にも悪いことだ、この当たり前にして不思議な事実に人々が気づくとき、世界と歴史は少しづつよくなるのではなかろうか。」と結ばれている。この当たり前のことを世界で共有するしか、人類の進歩はないのだろう。冒頭の戦場ジャーナリストは、戦地に住む市井の人々を取材することを信条としていたというから、悲壮な使命感だったのかどうかは別にして、「自分にとって悪いことは他人にとっても悪いこと」を共有することを担っていたとも言えるのではないだろうか。

『アダム・スミス』(中公新書)

2012-09-05 03:51:51 | 
大分以前に買っていたが、積ん読状態だった掲題の本を、最近読み終えた。帯を見ると、2008年にベストセラーとして注目されたようである。

アダム・スミスといえば『国富論』だが、この本では、まず『道徳感情論』という著作を取り上げている。題名通り、この著作は経済学的な内容ではなく、多分に哲学的だ。そしてこの本の解説も読み応えのある、非常に参考になる内容であった。

非常に印象的なのは、「公平な観察者」という概念だ。個人対個人の関係において、自分の行為について人がどういう感情を有するかを、人は公平な観察者の観点から判断するとする。確かに、自分の中にあたかも別人格を有しているように自問自答することは、経験的にはその通りかもしれない。その公平な観察者を形作るのは、周りとの折衝経験からであり、個人が所属する集団の中で形成されるとする。従って、同一の社会においては、共通した公平性を有するというのだ。


面白いのは、この公平な観察者という概念を国家間にも当てはめることだ。国家間においても同様の対応をしようとするのだが、国家間には共通の集団が存在しないから、公平な観察者が形成されにくいという。しかし、国家同士の関係においても公平な観察者の視点が形作られば、問題の適切な解決も導かれやすい。


まさに今、日本が抱える中国や韓国との領土問題は、まさに公平な観察者の視点から考えるべきだと、強く思った。もちろんそのためには、歴史的経緯を公平な観点から把握する必要がある。もし国際司法裁判所が裁くとすれば、公平な観察者の視点でなくてはならないだろうし、それ以前に各国家が公平な観察者の視点を合わせ持てるならば、国際司法裁判所は不要かもしれない。しかし、実際はそうはならないのだろう。国家はどこも今や、ナショナリズムとポピュリズムの嵐だ。

この本でもう一つ印象的だったのは、幸福を心の平静と捉えているところだ。昨今、幸福論が喧しいなか、シンプルで落ち着いた感じのアダム・スミスの考え方は好印象であった。