哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

阿部謹也著『中世賎民の宇宙』(ちくま学芸文庫)

2007-06-24 21:00:00 | 
 いくら世の中が便利になったように見えても、人は昔も今も変わらない、とは池田さんはよく書いておられました。そして人類の歴史は、自分の歴史でもあると。

 ところで、歴史を面白く読ませる本のうちの一つに、ハーメルンの笛吹き男の話で一世を風靡した阿部謹也さんの著作があります。今回は表題の本を読んで見ました。

 この本のポイントの一つを一言で言えば、なぜ差別が生じたか、ということです。日本でも被差別の問題がありますが、実はヨーロッパでも同様の差別があったことは、これまであまり日本に紹介されていなかったようです。この本では中世の宇宙観を解明していくなかで、差別が生まれてくる過程を解明しています。

 とくに印象深かった話を少し要約して紹介します。差別が生まれる原体験のような話です。

「(小学校で)たとえば生徒の中に非常に能力のある生徒がいる。その生徒はときどき教師に意地悪い質問をしたりする。すると、生徒の方に能力があることがわかり、教師の能力の方が低いということが判ってくる。そうなると教師は頑張ろうとして、ルールとかしつけなどのいろんな形でその生徒に圧力をかける。それがいじめにつながる。その場合の心理的構造というのは、潜在的な能力を持っているこの子供に対する教師の怖れがいじめという形で出て来る。」(P.323)


 阿部さんによれば、中世においても、自分達にない能力をもつ民に対する怖れが差別につながっていったのだそうです。

 差別も国家や民族と同様、かなり強固な観念となっていますが、その源を知ればかなり相対化できそうな気がします。

生きることの価値

2007-06-17 08:40:00 | 哲学
 病気で死のうがテロで死のうがそれは死に方に過ぎない、人は生まれた限り誰もが必ず死ぬものだからである、と池田さんは繰り返し書いておられました。そして、生きることそれ自体に価値はない、とも。


「生き延びることそれ自体が価値であるためには、善く生きるために生き延びるのでなければおかしい。弱肉強食、他人を蹴落とし、他人を殺し、そのようにしてまで生き延びるべき自分は、生き延びることによって何をしたいのか、そこに善があるのでなければおかしいではないか。」(『ロゴスに訊け』P.136)


 ここでいう「善」とは、単に自分にとって良いという意味ではなく、他人にとっても良い、つまり絶対的善を指します。絶対的・普遍的価値でなければ、そもそも価値とは言いません。善も絶対的・普遍的であるからこそ、価値であるわけです。

 他人を蹴落としたり、他人を殺したりすれば、既に悪いことを為しているように思いますが、戦争の時代や弱肉強食の時代に生まれれば、そのような生活形態は日常かもしれません。そのうえで自分が生き延びて為す善とは何なのでしょうか。

 むしろ逆に考えて、そのような時代にあっても他人を蹴落とさない、他人の命を奪わないということは善いことになるでしょうか。論理的には、自分が生きること自体に価値がないのと同様に、他人が単に生きること自体にも価値はないことになりそうです。
 しかし、自らの命を省みず他人の命を救う行為が極めて賞賛される行為であることは、先日の警官の踏み切り死亡事故の報道を見てもわかる通りです。

 絶対的善は、日常から遠く離れたものではなく、いつも今そこにあるのかもしれません。

選挙は人気投票?

2007-06-10 02:33:30 | 時事
 前回のコメントで寅次郎さんの書かれていた通り、マスコミでは何かについて参院選の話題です。池田さんはかつて、選挙どころか政治に関心がないと書かれていました。


「そもそも民主政体というもの自体を、私は信用していない。全員が平等に自分たちの代表を選び、全員で国政を運営するなんてことが可能であるとは思われない。我々はそれほど賢いものか。人は自分にふさわしい代表しか選べない。その証拠に、見よ、選ばれるのは、芸能人であり、スポーツ選手であり、あるいはその他「知性溢れる」政治家たちである。・・民主制というのは、そこに参加する全員が、同じくらい賢いのでなければ必ず堕落するというのは、ギリシャの時代にすでに出ている結論である。」(『知ることより考えること』P.95)


 選挙で選ばれる客体が、選ぶ主体と同レベルにすぎないというのは、確かにそうかも知れません。汚職をした政治家を選んでいるのも、金を稼ぐが勝ちとする選挙民と同じではないか、というようなことも池田さんは以前書かれていたと思います。

 民主制には代表民主制と直接民主制があるので、本当に大衆が賢い政治家と同レベルにならなくてはいけないのは後者でしょう。日本でも他国でも採用されている代表民主制というのは、政治の技量がない一般大衆が、専門家たる政治家を代表に選んで政治を託そうとするものです。だから代表民主制では、素人が専門家を選ぶことになるわけですが、かといって政治に関して何の素養もない人が、自分たちの代表者をどうやって選ぶのでしょうか。

 現実の選挙では、「テレビで見たことがあるので名前を知っている」とかそんなレベルで投票されるから、タレント候補が担がれるわけですね。政策重視とかいう掛け声が上がっても、選挙時は増税策を避けるとか、その場しのぎ程度の政策しか提示されないのですから、所詮その程度で左右される程度の選挙なわけです。


 池田さんが書いておられる通り、選ぶ側の一般大衆も一定程度は賢くならなければ、やはり民主制は堕落しそう(既にしている?)な気がします。

 引用した文章の後の方には「やっぱり自分が賢くなる方が先なのである。」とあります。

政治家と自殺

2007-06-03 04:13:40 | 時事
 今週は現職大臣の自殺が大きな事件でした。かつて池田さんも、「政治家」と「自殺」についてよく書いておられましたので、少し抜粋してみます。


「政治家とは、ステイツマンである。ステイトは動詞にて、「述べる、言う、申し立てる」、すなわち言葉を語ることである。政治家とは、言葉を語る人、言葉の人に他ならないのである。・・民主主義という政体は、高度に言語的な自覚があるのでなければ、維持されないはずである。」(『勝っても負けても』P.73)

「自殺する人は、死ねば楽になる、死んで楽になりたい、その一心で自殺するわけだが、死んで楽になる保証など、どこにもないのである。「生きているのが苦しい」の裏返しは、「死ねば楽になる」であると、短絡してしまうのであろう。・・死ぬということは自分が無になるということなのだと、こう考えることもできる。つまり、死んで無になれば、生きていることの苦しみがなくなって楽になったと思っている自分もまた、ないはずだということである。楽になったと思っている自分がないのだから、楽になるということも、当然、ない。」(『41歳からの哲学』P.123)


 政治家には高度な言語的自覚が必要ということですが、国会での議論や答弁全てがそうなのでしょうし、テレビ民主主義の今では、マスコミ上の発言も、公衆前での発言も全て含まれそうです。件の大臣にとって、その発言された言葉にどれだけ問題があったのか、詳細は知りませんが、死んでお詫びするか、死ねば楽になるかの、何らかの事情があったのでしょう。

 で、自殺の方ですが、池田さんによれば「死ねば楽になる」という考えの矛盾が端的に示されています。確かに、楽になるはずの自分がいなければ楽とは感じられないし、死んでも自分が存するとすれば苦しみがなくなる保証もないですね。では、死んでお詫びするという方はどうでしょうか。これも本当はお詫びは生きてすればいいのに、死んでお詫びをするということは、生きてお詫びをする苦しみから逃げているように思えます。死ぬことそのものがお詫びではないことは、お詫びの言葉が文書で残らないと死んだことがお詫びか否かわからないことでも明らかですからね。