哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

池田晶子さんの「ズバリ言うわよ!」②国家の観念

2005-11-14 05:40:25 | 哲学
 『残酷人生論』の「アイデンティティーという錯覚」と題した文から、要約しつつ抜粋します。

「人はとくに考えずに、私は日本人である、と言う。しかし、それはたまたまそこに生まれたというだけであって、「私」という精神はどこにも属さない。日本人である、と自分から思っているから、帰属意識を持ち、国家が存在する。思わなければ国家は存在しない。
 ~戦争という現実的な出来事においても、そんな観念的なことを言っていられますか。~
 むろん言えます。戦争という最も観念的な出来事においてこそ、かくまで現実的なことを言う意味がある。人が、国家を「存在する」と言い、そこに属すると「思う」、この思いこそが国家を存在さえ、存在もしない国家を守るために闘おうという驚くべき本末転倒になる。だから人は思わなければいいのである。人がそうと思わなければ、戦争は起こるはずが無い。だって何者でもない同士、いかなる理由があって殺し合うのですか。」(『残酷人生論』P.64~67)

 前半部分の「私」については、生物的にどうであれ、「私」という精神は何者でもない(人生が何事でもない、と同じですね)ということです。確かにウェブ上でペンネームを持つと、なんとなく別人格になった気分になったりしますが、まさにアイデンティティそのものが「思い込み」なのでしょう。

 そして後半部分の、「戦争という現実的な出来事」が全くひっくり返って「戦争という観念的な出来事」に置き換えられてしまう倒置には、驚きました。確かに国家というものが観念にすぎない(確かに物理的に国家が存在しているわけではない)となれば、戦争も観念でしかないとの言説は、全くもってその通りではないですか。これは国家を民族に置き換えても同じです。

 一度、私たちが普通に持っている「観念」の棚卸しをした方がいいんでしょうね。人類規模でそれができるなら世界は変わるんでしょうけど。