哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

幼児虐待殺人

2010-08-29 10:20:00 | 時事
 1歳と3歳の子の母親である23歳の女性が、子を放置して死なせた事件があった。この事件も、池田晶子さんなら必ず取り上げたであろう。池田さんは子供の虐待の話を繰り返し取り上げているからだ。この事件は虐待である以上に、ドアにテープを貼って逃げられないようにして放置した行為が、保護責任者遺棄致死罪のレベルではおさまらず、明らかに死なせる故意のある殺人罪である。遊ぶ時間が欲しかったという23歳の発言は、単なる若者であればごく普通の発言だが、幼児をかかえる親としては身勝手さが過ぎ、死亡した幼児らがあまりにも不憫に思われる。池田さんなら何と言うであろうか。


「考えてもみてほしい。人が親になるためには、いかなる努力も、いかなる才能も必要ではないという事実である。つまり、獣性にまかせて性交ををすればよろしいのである。そうすれば、誰もが自ずから親になることができる。獣性にまかせて親になったような親に、どうして寛容であり毅然として、等の人間の精神性の理想像を、いきなり要求できるだろう。単純なカテゴリーエラーである。」(『考える日々Ⅲ』「親子の縁それ自体が奇跡」より)

「あれら虐待する親たちを指して、「人間ではない」と人は言うが、これは逆なのである。人間だからこそ、あのような所行が可能なのである。もしも人間が完全に自然的な存在であり、その自然にまかせて子供を作ったのなら、やはりその自然にまかせて子供を育てるはずなのである。」(『41歳からの哲学』「虐待するなら子供を作るな-親」より)


 要するに、人間でも獣性を徹底すれば、精神的には幼稚であっても、子供は慈しんで育てるはずだが、人間は中途半端に自然を脱したために獣性にも劣る行為を為してしまうというのだ。

 この事件の当事者を非難するのは簡単だが、ではどうすればいいのか。池田晶子さんは『考える日々Ⅲ』では、プラトンの『国家』を引用して親と離して教育するシステムに触れているが、あまり現実的ではなさそうだ。しかし、虐待に至るかどうかは別にして、育児ノイローゼやうつに至る母親も多くいるという現実があるのだから、これは親個人の問題や核家族化した世帯内で解決できる問題ではなさそうだ。かといって戦後教育がどうのという問題でもない。身の周りの地域コミュニティでの適度なコミュニケーションが、少しは問題を小さくしてくれそうに思う。これは高齢者行方不明の解決法と同じような話になりそうではないか。

“不便”は人の心に響く

2010-08-28 02:30:30 | 時事
 先日たまたま民放を見たら、表題テーマの番組を放映していた。

 ある車ディーラーでは、ドアを自動から手動に変えて、店員が顧客来店時にわざわざドアを手で開けてあげるそうだ。そうすることによって、顧客とよりコミュニケーションが図れるという。また、離れた親戚同士の交流の一環として、親戚一同用に手書きの新聞を発行するという取り組みも紹介されていた。手書きという手間によって、より気持ちが伝わるという。

 池田晶子さんなら、それみたことか、というだろう。世の中が便利になっても人間は何も変わらないとよく書いていたものだ。



「そもそも、便利さを求めることによって、何を求めているのかが明らかではない。便利になれば時間が節約される。しかし、その節約された時間を何に使うかというと、やっぱりその仕事をするために使うわけである。ゆえに、便利になることによって、仕事はより忙しくなっているはずである。より忙しい生活になるためにこそ、便利さは必要というわけだ。
 そうでなければ、便利さにより節約された時間は、ロクでもない娯楽に浪費される。時間をもて余し、することのわからない現代人が、ネット内で交わすおしゃべりの愚劣さを見ればわかることだ。」(『知ることより考えること』「便利は不便」より)



 便利さによって、人間同士のコミュニケーションが失われていっているとすれば、我々は一体何のために便利さを追求したのだろう。新幹線や飛行機などで、移動時間も大きく節約できる時代だから、人間同士のコミュニケーションは増大が図れるはずではなかったか。あるいは簡単には行けない遠い地を訪れることによって、知見を深められるはずあるのに、それを娯楽で浪費してしまっていないか。そうだとすると、便利は不便どころか、人間の退化を招いているともいえる。

 冒頭の自動ドアを手動に変える事態のように、便利を不便に戻す姿は、なんとなく滑稽である。便利を追求するのは何のためか考えず、結局手段が目的化してしまった結果のように思える。

週刊東洋経済8/14-21合併号

2010-08-14 02:02:02 | 時事
 掲題雑誌が、実践的「哲学」入門というテーマで特集を組んでいる。もちろん、あのマイケル・サンデル氏のベストセラー本がきっかけであることは間違いない。氏のインタビューや講義内容紹介もある。ちょうどNHKも再放送をしているそうだ。

 経済雑誌で「哲学」特集とは、なかなかの見識かと思いきや、そうでもなさそうだ。表紙の特集テーマの“実践的「哲学」入門”の前にこういう言葉が置かれている。“混迷する現代社会を生きるビジネスパーソンのための”という言葉だ。これを池田晶子さんが見れば、それこそ「喝!」だろう。

 現代が混迷しようが、ビジネスパーソンが生きにくかろうが、そのために哲学を学ぶというのであれば、そもそも哲学を学ぶということがどういうことかを分かっていないと池田さんなら言うであろう。哲学は決して“不安を解消する手助け”なんぞなりはしない。その、生きているということそのものが一体何なのか、生存つまり存在とは何かを考えることだと常々池田さんは言っている。

 さはさりながら、この雑誌の中の「厳選!!哲学・思想書20冊」において、池田晶子さんの『帰ってきたソクラテス』等のソクラテスシリーズが推薦されているのはうれしかった。どうも哲学入門本として捉えられているのは、ちょっとした勘違いだろうが、それでも一人でも多くの人が手にとってくれればうれしい。

『これからの「正義」の話をしよう』(マイケル・サンデル著)

2010-08-10 23:19:19 | 
 今哲学書としては異例にベストセラーになっている本だ。ハーバード大学の公開講義がもとになっているといい、日本でもNHKで放映された。

 実は初めてこの題を見たとき、「これから正義の話をしよう」という題と勘違いした。公開講義がもとになったと聞いていたので、「これから始めよう」という意味だと思ったのだ。ところが「これからの正義」と、「の」が入っている。「これからの正義」ということは、「これまでの正義」があり、区別するということになるのか。池田晶子さんならきっとバッサリ斬りそうなところだ。「正義」に「これから」も「これまで」もないからだ。

 原題は単に「Justice」であり、そのまま題名をつけるとすれば「正義論」となってしまい、本屋の哲学の棚に並んだときにロールズの一連の著作と区別がつかなくなってしまうから、このような題を付けたように思える。「これからの正義」といえば、多くの人が手にとってくれそうだし、実際それは成功しているようだ。


 さて、内容の方だが、これは池田晶子ファンでも好感が持てる内容であり、お薦めといえる。哲学者については、カントとロールズとアリストテレスが主に語られるが、考える素材が現代において実際に起こっている生々しい出来事ばかりであり、あくまで自分の頭で考えさせようとする姿勢であることもよい。公開講義では学生との対話によるソクラテスメソッドで行われていたというから、まさに講義から生まれた本に相応しい。


 著者は上の3人の哲学者の中では、アリストテレスに近い立場をとるようだ。正義は善に通ずべきだし、誰もが共通に同意できる公共善というものを考えようとする。

 「正義」や「善」とはどういうことか、その実現された結果をどう思い浮かべるかは各人様々でも、「正義」や「善」という言葉が本来意味するところは万人に共通である。でなければ、言葉として成立しえない。言葉としての「善い」が、「悪い」に決して入れ替わったりしないのだ。このラディカルな地点から考えるべきなのだろう。これは池田晶子さんの謂いでもある。

高齢者行方不明その3

2010-08-09 22:06:06 | 時事
 100歳以上の高齢者が数十人所在不明であることについて、韓国など海外メディアでは、統計の厳格な日本だと思っていたのに、いい加減な内容に驚いたと報道されているそうだ。今回の行方不明者の所在がわからないままになることによる統計上の誤差はどの程度になるのだろうか。さすがに数十人程度だと、あまり大きな影響がないような気がする。

 そもそも統計といっても、今回の話のもともとは戸籍上生きていることになっているかどうかだろう。確かに日本の戸籍制度はかなりきちんとしているとは聞いているが、今回の話以前にも戸籍の問題が報道されたことがあった。全く記憶ベースの話だが、確か嫡出推定の問題で、再婚後の夫との子なのに、離婚から日にちを経ずに生まれたため前夫との子になってしまうので、あえて戸籍に載せないということだったと思う。このような子供たちは、戸籍に載っていないため、パスポートも取れないという。

 戸籍というものの存在は、一般生活においてあまり意識することはないが、いざ相続というときになると、戸籍を調べざるをえない。そして相続人を確認しようとすると、そのうち行方不明になっていたり、親族と全く疎遠な人がいたりする。さらには内縁の配偶者が相続できなかったり、笑う相続人(被相続人とほとんど付き合いがなかったのに遺産が転がり込むことをいう)が発生したりするわけだ。

 戸籍制度が優れていても、その結果発生することはなんと滑稽なことだろう。戸籍上生きていることこそが生きていることだ、と法治国家ではなるのだろうが、生きるということはもっと自由なことだと池田晶子さんなら謂うに違いない。

高齢者行方不明その2

2010-08-07 21:44:00 | 時事
 報道では、高齢者が所在不明であると同時に、年金がずっと払われているケースもあるという。一時期、死んだことを隠して年金不正受給をしたことが問題になったことがあったが、行方不明のまま家族が年金受給をしたケースがどう扱われるのか、報道を見ていてもあまりコメントされていない。そもそも「行方不明」であり、死亡していないのだから年金受給そのものは問題ないだろう。家族が口座を管理している以上、高齢者自身が家族に託して出て行ったともいえる。そうなれば、その金銭を使ったとしても問題ないだろう。要するに合法的に年金受給を続けられるというわけだ。まあ、池田晶子さんに言わせれば、所詮金銭の話であり、何の興味も持ってもらえないだろうが。

 とりあえず相当期間行方不明である以上、これから失踪宣告を申し立てるしかない。これは家族が行わなくても、行政で行うことができる。問題は失踪の時期だろう。家族の話をもとに失踪した時期を決めるしかないが、失踪した時期以降7年間を経過した時点が死亡した時となる。それ以降受給した年金がどうなるか。法的見解ではおそらく不当利得として返還しなければならないだろう。もしその金銭をもう使ってしまったとすれば、それでも返還を求められるだろうか。民放703条によれば、不当利得は現存する範囲で返還すればよいから、おそらく消費してしまっていれば返還しなくてよいのだろう。

 行方不明中受領した年金が返還不要になったとして、けしからんといっても仕方がない。死亡も年金制度も決め事にすぎないのだから。

高齢者行方不明

2010-08-03 22:50:50 | 時事
 池田晶子さんなら、絶対取り上げたであろう話題だ。

 行方不明とは、生きている前提での言葉である。しかし、住んでいるとされるところが更地であったり、家族が言うには20年前に出て行った等、100歳以上で今も生きているとは必ずしも思えない状態が多く見つかっているらしい。しかし、死亡したとは決して言えない。死体が見つかっていないからだ。この騒動のきっかけとなった事例は、自室で30年以上白骨化したままだったそうだが、家族がドアを閉めたままで死体を見なかったことにしておけば、生きていたことになっていたわけである。

 ここで、池田さんは「死」とは何かと必ず問う。「死ぬ」とはその人が「いなくなる」ということだが、「いなくなる」=「無になる」とはどういうことか。


「なるほど、その人は死体となって、その人の肉体はなくなったけれども、「その人そのもの」は、ではどうなったのか。・・その人は死んだ、彼はいなくなったと当たり前に言う、しかしそれは正確にはどういうことなのか、考えるとじつは誰にもわからないので、それで、とりあえず、肉体の消滅をもって死とするということに「決める」のである。死とは、社会的な取決め以外のものではないのである。」(『ロゴスに訊け』「すべての死者は行方不明」より)