哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

死んでも治らない(週刊新潮今週号の「人間自身」)

2006-03-27 06:21:55 | 哲学
 池田晶子さんの週刊新潮連載「人間自身」今週号は、「死んでも治らない」という題でした。

 今回も抜粋するほどでもないのですが、池田さんは団塊の世代の編集者にいじめられたことがあり、結構トラウマのようにあっちこっちで団塊の世代は「ものを考えていない」と、グサリとおっしゃいます。団塊の世代は昔デモ活動にいそしんでいたそうなのですが、いまさら青春にかえってフォークソングなぞに涙する「大人になれない」恥ずべき態度は「死んでも治らない」と。


 確かに、「みんなで渡れば恐くない」とかいって、みんなが同じ方向に向く、日本人にありがちな集団指向性は、ものを考えていない証左かもしれません。これは団塊の世代に限った話ではありませんが。

 民主主義そのものが多数決を是としていますから、みんなが同じ方向に向いたのであれば、それを正しいとするわけですね。しかし、みんなが間違えることもあるのは、歴史が証明しています。大多数の考えていない人たちよりは、一人の考えた人に、正しさの面で絶対に及ばないわけです。

 時代の空気なんていうのも、実際にあったりするような感じがします。団塊の世代のデモ活動も時代の空気のように思います。しかし思考が欠如していたという、池田さんの指摘ももっともです。今の時代に引き直せば、小泉自民党への圧倒的な支持や、韓中に対する露骨な嫌悪感が挙げられるでしょうか。週刊新潮にも韓中に対する強硬な論文が目立ちますが、冷静に考えたいところです。

梅原 猛さん

2006-03-23 21:52:28 | 知識人
 新聞連載されていた梅原猛さんの「反時代的蜜語」が先日最終回となりました。梅原猛さんもこの3月20日で81歳になられたそうです。

 そんなお年にもかかわらず、これからの梅原さんの課題は、「日本語の起源」の問題と、「人類の哲学」の構想の2つとのことです。

 前者について、日本人が土着の縄文人と渡来の弥生人との混血によって形成されたのが自然人類学的に明らかだそうで、渡来人が支配者になったので、日本語は古代朝鮮語的な文法になったそうです。ただ、土着人の言語(例:アイヌ語)も強く残っていると言います。

 後者については、人類の農業文明以降の歴史の道は滅亡への道かもしれないから、人類を末永く生き永らえさせるために、人類の運命を狩猟採集時代にまでさかのぼって考える哲学が必要であると言います。



 前者については個別的な歴史研究のようですが、後者については普遍的な哲学を構築したいということでしょうか。しかし一体どんな哲学なんでしょう。狩猟採集時代にさかのぼって考えた哲学とは?

 そもそも人類を滅亡させないため、という目的が「哲学」の目的たりえるのか。池田さん(やソクラテス?)がよく指摘するのは、「長く生きる」ことに価値はなく、「善く生きる」ことこそ価値があるということでした。逆に言えば、「善く生きる」ことができないならば、何ら「長く生きる」理由もないということでしょう。それは人類規模でも同じと思います。人類も「善く生きる」ことによって、生き永らえることができるのかも知れませんが、それでも決して生き永らえることを目的にはできないでしょう。人類の運命は恐竜と同じかも知れないのですから。

高層の夢(週刊新潮今週号の「人間自身」)

2006-03-18 18:54:48 | 哲学
 池田晶子さんの週刊新潮連載「人間自身」今週号は、「高層の夢」という題でした。

 今回は抜粋するほどでもないのですが、要は、都内は高層マンションの建築ラッシュで、池田さんの入居しているマンションも建て替えの話があるそうです。しかし池田さんにとっては、適当に古いところに住んでいた方が思索するにはいいので、高層になったら出ようと思っているとのこと。

 表題の「高層の夢」の意味は、高層マンションに住んで、セレブを目指し、株価に泣き笑いする・・、そんなものは夢想では?という事を言っています。


 話は脱線しますが、夢といえば「夢判断」というのが流行っては廃れますね。「夢占い」程いかがわしくはないでしょうが、「夢」で本当に人の何かがわかるのか、ちょっと気になります。

 毎日見るあの不可思議な「夢」は一体何を意味するのか、あるいは全く無意味なのか。一時期、夢を記録しつづけた明恵上人の話を知って、夢を毎日記録してみようと始めたことがありましたが、数日で挫折しました。一晩見た夢を記録するだけでも、あまりにも突拍子もない内容で、しかも文章にするとなると膨大な量になってしまって、とても毎日書ききれる量ではなかったのです。

 もし毎日の夢を記録していけば、ミステリー小説を1本書けるかも知れませんね。ストーリーの連続性と完結は保証できませんが。

竹岡広信さん

2006-03-15 22:26:49 | 時事
茂木健一郎 クオリア日記 金さんの警告

 竹岡広信さんは「ドラゴン桜」のモデルとなった人だそうだが、この番組(プロフェッショナル仕事の流儀)を見てはじめて知った。「ドラゴン桜」という漫画も、東大受験のノウハウを描いていると聞いていたが、その漫画自体を読んだことがないので内容は知らない。

 しかし、この番組での竹岡広信さんの話を聞いて、決してノウハウを教えるのではなく、知を欲求する心を呼び覚ますきっかけ作りにこだわっているとわかった。

 挫折したときパチンコに入り浸っていた竹岡さんが、競馬ファンと話したとき、馬の血統や体調等に極端に詳しいことに驚き、好きであれば何でも覚えられることに気づいた。そして、子供たちが自分で知りたいと切望するきっかけ作りを辛抱強く行うようになったという。

 また、要領よくやろうとしても結局頭に残らない、回り道するように一つのことに没頭する方がかえって早道だともいう。英単語を記憶に印象付けるため、語源で説明したり絵などイメージを描くというのも、その方法の一つだそうだ。

 決して受験はテクニックではなく、これからいろいろ体験するであろう自らの人生に対するひとつの態度である、つまり真摯に全力を尽くすことを将来の糧にできると言うのである。いい内容の番組でした。

子供は哲学する(週刊新潮今週号の「人間自身」)

2006-03-11 03:30:48 | 哲学
 池田晶子さんの週刊新潮連載「人間自身」今週号は、「子供は哲学する」という題でした。新聞社(朝日)の企画で中高生に授業をしたそうです。主なところを要約しつつ抜粋します。

「考えることを教えるのは、実は難しい。「考える」とは「精神が本質を洞察する」ことだが、これを行っている大人が滅多にいない。大半は本質の洞察など行わず、現象と共に浮沈しているだけである。
 人が本当に自ら考え始めるきっかけは、存在の不思議に驚くことだけだ。驚いて、それを知りたいと切望する。しかし、驚くことはある種の感性だから、やはり教えるのは難しい。
 とはいえ、若い方がその種の感性に開いているのは間違いない。」


 ということで、池田晶子さんが名門進学校や中学1年生に教えたところ、手ごたえがあったことが書かれています。

 若いころは確かに感性豊かだったかもしれない、と自分の乏しい過去を思い出しても、そう思うことがあります。同じ「存在の不思議」に驚いたとしても、41歳と14歳では「驚く」程度に雲泥の差があるのかもしれません。脳科学の受け売りですが、15歳位で完成した脳は、その頃から脳細胞が大量に死滅していくそうですから、大人の感性が鈍るのも当たり前かもしれません(なんでも脳のせいにするのは池田晶子さんの嫌う言い方ですが)。

 そもそも感性が鈍り、池田さんほどにも「考える」訓練もしてこなかった大人たちが、子供たちに「考える」ことを教えることは到底無理ですから、本当は、子供への授業よりも大人への授業がもっと必要ですよ。

作家の安売り(週刊新潮今週号の「人間自身」)

2006-03-06 20:58:53 | 哲学
 池田晶子さんの週刊新潮連載「人間自身」今週号は、「作家の安売り」という題でした。

 今回は抜粋するほどでもないのですが、要は、売れっ子の若い小説家がブログ等で私生活を公開することを「ファンサービス」と言う「勘違い」を指摘し、言葉という至上の価値あるものを有名になる手段としてしまうのであれば、言葉や作品の価値を貶めることになるだけ、というものでした。


 文章の中で「読者」と「ファン」の違いを言う部分もあり、ファンだとまるで芸能人ではないか、とも書いていましたが、そも有名人は得てして芸能人と紙一重です。最近は作家に限らず、学者にしろ専門職業家にしろ、有名=テレビ出演という風に芸能人化していく傾向が多いような気がします。作家、学者、専門職業家に対しても、結構「ファン」と呼ばれる人たちがいそうな感じです。

 このブログも池田晶子ファンを名乗っていますが、ファンと言っても別に池田晶子さんの追っかけをしているわけではありません。池田さんの言葉は追っかけていますが。

「マッシュルーム・クラブ」

2006-03-02 05:19:07 | 時事
債券・株・為替 中年金融マン ぐっちーさんの金持ちまっしぐら :2006年2月10日

 先日テレビで「マッシュルームクラブ」というドキュメンタリー映画の話をしていた。何でもアカデミー賞の部門にノミネートされているそうである。マッシュルームがきのこ雲のことだと気づくのに少し時間がかかった。

 実は私は、広島県内の公立小中学校に通っていたので、必ず8月6日は全校登校日だった。かならず「原爆許すまじ」を歌わされた(今でも一番の歌詞は覚えています)。当然全国の学校も8月6日に全校登校をしていたと思いきや、広島県だけだったらしいと知ったのは、随分後の話である。

 歴史は知らなければ論議もできない。昨日のNHKクローズアップ現代では韓国人イ・スヒョンさんの映画の話題だったが、日韓の若者同士では植民地時代の話をしようにも、そもそも論議にさえならないそうである。なぜなら、韓国の生徒は歴史で絶対に習うその時代のことを、日本の生徒はほとんど習っていないからである。

 「マッシュルーム・クラブ」はよく話題にはなる歴史の一場面を少し深く掘り下げて世界に発信してくれそうだが、かつて国連で被爆者が演説したことがあったにもかかわらず、いまだに世界の向く方向が変わらないのは「人は見たいと思う現実しか見ない」からとしか思えない。


 さて、上記ブログの金融業界の方が、アメリカ人の方に京都を案内するなら、まず広島を見てから、と仰って実行されているのには、ちょっと感銘を受けました。