哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

古本市

2010-04-27 22:58:00 | 
 春のこの時期は古本市が各地で行われている。先日そんな古本市に出かけてみたら、偶然にも思わぬ掘り出し物を見つけてしまった。あの、池田晶子さんが自ら絶版にしたという単行本『最後からひとりめの読者による「埴谷雄高」論』を見つけたのだ。もちろん買い求めたのだが、値段もごく普通の古本価格であった。池田晶子さんの古本を探しに行ったわけでもなかったので、本当に驚いた。そもそもこの本自体が、池田晶子さんの著作リストに載っていないから、存在自体を忘却していたくらいだ。
 

 題名と同じ論文は『メタフィジカ!』や『オン!』にも掲載されているが、『オン!』に書かれている通り、この『最後からひとりめの・・・』に掲載されている方の論文は、後のものとは随分違っていた。章立ても異なっている。今ここでその内容に触れる余裕はないが、ゴールデンウィークに古本市にでも出かける際は、池田晶子さんの絶版本もちょっと気にしてみてはどうだろうか。

自由貿易 自由経済

2010-04-16 00:20:20 | 時事
 ある雑誌で自由貿易が民主主義を崩壊させるという記事に接した。民主主義を最善とする前提はとりあえず置いておくとして、簡単に言うと、自由貿易つまり国家間での貿易を自由にすると、他国の低価格商品が輸入されるから国内の関連産業がダメージを受け、国内の貧富格差が進むため、政治が不安定となり専制政治が台頭することになるという流れだ。確かに貿易とは異なるが、ヨーロッパでも移民受け入れを積極的に進めた国において、移民が低賃金で働くため自国民の失業が増え、結果的にネオナチが台頭しているという話も聞く。

 自由貿易は自由経済の一形態だが、自由経済においては希少な物は高く、供給過剰であれば安くなり、そして同じ物であれば、安い方が売れる。安ければ良いわけだ。しかし、ここには外部不経済が存在し、そこで歪みが生じる。エコにおいても(エコを最善とする前提はとりあえず置いておくとして)再生紙は高価で一般紙は安いが、安い方を取れば結果的にエコに反してしまう。

 ここに至って、経済における自由というものの問題に突き当たる。自由経済においては、安ければ売れるからよい、売れることにより利潤最大を目指すことに価値がある。各人が市場で利潤最大を目指すことが社会全体にとって善いことだという前提があるが、上で見たようにこの価値感には落とし穴があるわけだ。

 利潤最大を目指すことが善いという価値感は、やはりお金が全てという価値感とつながってしまう。お金が全てという価値感は、池田晶子さんが常に問題としていた話だ。池田さんのいう「自由」は、好き勝手にやったり、お金を儲けるためが目的だったりするのとは違う。人間は真善美を求めるという、そこにしか「自由」はないというわけだ。貿易や経済において、真善美を求めるとは一体何のことかと思ってしまうが、経済も政治も生活も生存も一蓮托生につながる話であるから、決して関係のない話ではない。

新党 若者

2010-04-11 11:29:29 | 時事
 老人ばかりの新党と揶揄されて、石原慎太郎氏は、若い政治家には覚悟がないとまくしたてていた。しかし、参院選に間に合うかどうかは別にして、志ある若い政治家もいるから心配には及ばない、と言いたい。

 つい先日の日経新聞で、若者の海外旅行の傾向として海外ボランティアを行うツアーが結構多くなっているという。草の根の国際貢献といえよう。決してレジャーに現を抜かす者ばかりではない。志ある若者もいるのだ。

 海外旅行だけではなく、海外協力として何年も海外でボランティアとして働く若者もいる。私の従兄妹も看護士としてネパールに行っているが、現地で生活できるだけの給料だけをもらって働いているという。きっとお金だけではない、得るものがきっとあるだろう。


 ところで、新党立ち上げも反民主からだそうだが、確かに民主党政権は結果的に期待はずれであった。何せ言っていたこととやっていることがあまりも違いすぎる。あれだけ財源に心配はないと言い切っていたのに、予算を大幅に増大させ、国債の発行を増額してしまうのでは、約束違反も甚だしい。

 しかしこの現状に矛盾を感じるのは、民主党内部の1年生議員も同じであろう。心配しなくても志ある若者は出てくる。我々もしっかりそういう政治家を見究める見識をもつようにしておきたい。

『フェルマーの最終定理』(新潮文庫)

2010-04-05 22:56:56 | 
 4月になると新入生の季節である。この頃になると、雑誌の特集が新入生向けの内容も多くなり、新入生のための推薦本特集も多い。先日、数学雑誌の特集で、掲題の本を是非読むべきだとの記事があったので、読んでみた。

 確かにおもしろい。フェルマーの最終定理そのものよりも、ピタゴラスくらいから語られ始める数学の歴史そのものが、物語として大変おもしろく書かれているのだ。途中でゲーデルの不完全性定理やハイゼンベルクの不確定性原理までも触れられていて、多くの知識を体系付けるかのような、俯瞰的な視点を持てたような気にまでなる。

 ただ最初の方では、数式を捕遺に載せて厳密な数学を少し理解していっている気になるものの、後半ではさすがに高等数学になるのだろう、数式も出てこず(出てきても理解不能だろうが)、全く物語だけの世界になる。フェルマーの最終定理の証明の鍵は、楕円方程式とモジュラー形式なのだそうだが、それらをWikipediaで調べてもさっぱりよくわからなかった。


 この本を読んでいて思ったのは、数学において純粋に論理で考える様は、まるで哲学において考えることと全く同じようにピュアなのではないか、ということだ。しかも何年もかけて考え、そして必ずしも報われるとは限らない。池田晶子さんも、哲学によって人は救われるわけではない、と何度も書いていた。しかし、知を愛するのだ、知りたいのだ、我々は。