哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

なりものが好き(週刊新潮今週号の「人間自身」)

2006-09-24 03:07:00 | 哲学
 池田晶子さんの週刊新潮連載「人間自身」今週号は、「なりものが好き」という題でした。皇室でのご出産の話題に関してです。



「日本人の感性はその古層において、未だアニミズムである。生殖し繁殖する生命すなわち霊魂を、言霊により寿ぎつつ生活していた歴史だということだ。子供が生まれることを寿ぐ感覚は、おそらく、農作物、生(な)り物の収穫を喜ぶことに近い。」



 「なりもの」とは「生り物」、つまり新たに生まれたもの、について喜び祝うことを「寿ぐ」と言っているようです。


 池田さんはこの連載で、時事に関することを果敢に取り上げ、その際に「そもそも日本人は・・」という論調を書かれることも少なくありません。しかし、「宇宙は何を考えているのか。」という問いを発する池田さんは、日本人の特殊性をことさら強調しようとしているものではなく、人間が営んできた歴史のある一面を切り取って表現しているだけです。


 農作物にせよ、子孫にせよ、その他の財産にせよ、豊穣を祝い願うことは、地球上の全ての民族に見られることは明らかだろうと思います。古代の壁画や伝説等に見られる、葡萄やイチジクや柘榴等のモチーフは、豊穣を願ったものとされています。

 ただ例えば農耕民族と遊牧民では、その感覚と表現に違いがあるように、日本では農耕民族的な要素を比較的強く残しているのでしょうか。


 アニミズムという、自然そのもの(に宿る神)を尊ぶ精神は、日本人に限らず、全ての人間が歴史上多かれ少なかれ持っていた精神ですので、たとえ現代の人類がアニミズムを忘れようとしても、飽くまで人間は自然たる生物界の一員である以上、アニミズムの方は人間を忘れることがないような気もします。

ニュートンムック『宇宙の不思議なはじまり そして地球と生命』

2006-09-19 21:27:27 | 
「宇宙は何を考えているのか。」という言葉を発する池田さんはかつて、すばる望遠鏡で撮影した宇宙の写真をよく見ていると書いておられました。


 星雲や星団等の写真を見ながら、宇宙の果てまで「存在の謎」について思索しておられたのでしょう。



 ところでたまたま最近、宇宙規模の「存在の謎」を考える道具となりそうな、掲題の本を見つけたので紹介します。

 宇宙と地球の歴史を薄い一冊の本にまとめたもので、お薦めなのはビジュアルな点と、宇宙と地球の行く末の予想まで載っている点です。写真ではなく想像図のようなイラストばかりですが、このようにイメージを膨らませることによって、言葉以前の思考により宇宙という存在を考えることができそうな気がします。

お釈迦様でも(週刊新潮今週号の「人間自身」)

2006-09-17 19:47:10 | 哲学
 池田晶子さんの週刊新潮連載「人間自身」今週号は、「お釈迦様でも」という題でした。やはり生死の話の続きのようです。



「死ぬ原因が生まれたことにあるのなら、生まれた原因は何にあるのだろうか。そもそも存在しないものが、生まれることができるはずがない。存在するから生まれたのだと言うことはできる。
 しかし、生まれたということは、生まれないこともできたことを含意する。だとしたら、どうして生まれたのだろうか。原因はやっぱり不明である。
 「生と死」と分けて言い、分けて考えるところから、この面倒は生じている。生と死とは対としての言葉であり、言葉がなければ生死は言えない、つまり、「ない」。
 私は面倒だから、言葉以前のこの存在を指して「存在」と言うことにしている。「存在」は生死でもあり、生死でもない。同じ事を色即是空と言った人もいる。」




 池田さんの巡らせた「生死」に関する考えが、お釈迦様の仰ったことに到達しているわけですね。上には引用しませんでしたが、その人(お釈迦様)は「輪廻転生」には決して言及しなかったそうです。一切が空であると言うわけです。


 そうすると「空」は、「無」ではなく、「存在」ということですね。

 では、生死であり、生死でもない「存在」とは、一体何でしょう。


 このような「存在」について、もう少し卑近な言い方を池田さんの過去の文章から拾えば、「魂」という言い方が見られます。生まれても死んでも「存在」することを観念しようと思えば、肉体にとらわれないイメージとして、「魂」がわかりやすそうです。


 しかし、表現を変えてわかったようでも、実は言葉のうえで表現している限り、「生と死」の区別をしているのと同じような言いようになってしまっています。結局「言葉以前のこの存在」と池田さんが言っている「存在」は、まさに言葉以前のものとして私たちも捉えられなければ、池田さんの考えに近づくことが難しいような気がします。それが「空」なのでしょうか。

塩野七生さんの「日本人へ」41

2006-09-13 04:59:00 | ワイン
 今月の文藝春秋(10月号)の「日本人へ・41」は「葡萄酒三昧」という題でした。ついでに池田さんに関するお酒の話(下記リンク先)も併せてご紹介しましょう。


「お酒」 池田晶子さん お品書き フード&スイーツ グルメ YOMIURI ONLINE(読売新聞)


 塩野さんは、コーヒーの代わりにバーでワインを飲んでいるそうです。しかも古代ローマ人のごとく、オンザロックで。

 私も昔イタリアには旅行したことがあり、レストランのハウスワインはたいてい陶器のカラフェで供されましたが、とてもおいしく感じられました。



 一方池田さんは、昔は日本酒党だったそうですが、今は缶ビールだそうです。お酒によって考えが冴えたと仰っていますが、今はどうなんでしょうか。晩酌にビールとは、あまりに親父的ですが、お酒が人生の楽しみの半分というのも意外な発言です。お酒で思考が冴え渡るというのですから、考える楽しみを言っているのかも知れませんが。


 私はまったくのワイン派ですが、飲んで考えが冴えるなんてことはまずありませんので、飲むのは程ほどに、週末に1~2本くらいですね。一応ワインにはこだわりがあり、ボルドータイプの赤ワインかシャンパーニュを好んで飲みます。

 しかしワインのうんちくは、塩野さんも書いているごとく人に嫌われますので、最近はあまり御託を並べなくなりました。

奇跡のほんとう(週刊新潮今週号の「人間自身」)

2006-09-10 03:53:40 | 哲学
 池田晶子さんの週刊新潮連載「人間自身」今週号は、「奇跡のほんとう」という題でした。前回の生死の話の続きのようです。よどみない論理の流れは、池田さんらしい文章ですね。



「生命は素晴らしい、生きていることは奇跡的だと礼賛するなら、死ぬことだって、同じく奇跡的なことのはずである。なぜ死ぬことを奇跡と言わないのか。「生命の神秘」と口では言うが、本当の神秘を感じているのではないからである。

 精子と卵子が結合する確率が奇跡的とはいえ、確率であるということは可能であるということだ。可能なことは可能なのだから、奇跡ではない。
 本当の奇跡は、自分というものは、確率によって存在したのではないというところにある。なるほどある精子と卵子の結合により、ある生命体は誕生した。しかし、なぜその生命体がこの自分なのか。この自分は、どのようにして存在したのか。存在するということ自体は、人間の理解を超えている。

 なぜ存在するのかわからないものが存在するからこそ奇跡であり、存在する生命は神秘なのだ。」




 池田さんのよく使う言い方では、「生命の神秘」は「存在の不思議」と言い換えられます。今回はそれを「奇跡のほんとう」と言い換えたと言っていいでしょう。そしてそれは、自分や生命の存在の不思議から、宇宙の存在の不思議に直結します。
 宇宙がビッグバンから始まったと科学で説明できても、なぜそのように宇宙が始まったのかは、説明できません。それが神秘であり、あえて説明しようとすれば神が創った、となってしまうわけですね。


 今回の本文にも、「なぜ存在するのかわからない宇宙が、なぜか自分として存在し、それが生きたり死んだりしているのを見ているというのは、いったいどういうことなのか。生きたり死んだりしているとは、(何が)何をしていることなのか。」と書いておられます。
 「(何が)何をしているのか」とは、行為の主体さえ、人間の理解を超えているというわけですね。これもあえて説明するとすれば神の御心のままに、となってしまいそうです。




 今回の本文の最後の方に、「人生は自分のものではない。生きるも死ぬも、これは全て他力によるものである。」とあります。文の流れからは、論理的に何らおかしくありませんが、現代の人生観(「人生という一定期間を限定し、自分の権利だと他者に主張する」)に対する痛烈なカウンターパンチですので、世間的には受け入れられにくそうですね。

 しかし、素直に考えればそれは「まっとうなほんとう」です。生きるも死ぬも他力だからといって、今の自分の主体的な生き方を放棄しなさいと言っているわけでも何でもないのですから。

生死は平等である(週刊新潮今週号の「人間自身」)

2006-09-03 01:16:30 | 哲学
 池田晶子さんの週刊新潮連載「人間自身」今週号は、「生死は平等である」という題でした。今回は三つのキーワードを挙げて、それらに関して池田さんがこれまで書いたことがほとんど世間の人に通じていない、というものです。



「「言葉」、この話題はすんなり通じるか、全く通じていないか、どちらかのような感じがする。
 「自分」、この話題はたぶんほとんど通じていない。
 「生死」、この話題がどうも一番厄介だということに気がついた。生死こそ人間の最も本質的な問題だが、だからこそ通じていない。多くの人は死に方のあれこれをもって死だと思い、本意だ不本意だといい、気の毒だ立派だと騒いでいる。しかし「死に方」は死ではない。現象は本質ではない。本質とは「死」そのものが何であるかであるが、これが通じない。
 生きるのは権利であり、死ぬのは何かの間違いであると思っている。しかし、生死することにおいて、人は完全に平等である。すなわち生きている者は必ず死ぬ。癌も心不全も脳卒中も、死の条件であっても、死の原因ではない。すべての人間の死因は生まれたことにある。どこか違いますかね。」




 確かにどこも違わないですね。以前どなたかの死に方の話で、いろんなブログで池田さんが反発を受けていたのを見たことがありますから、それを言っているのでしょうか。

 「死に方は、死そのものではない」は、現象と本質を分けた、まさに直球的言質ですね。では死とは何か。これが実は簡単にはわからないので(だから考えるのですが)、世間に通じるのが困難なのは謂わば当然ともいえるかもしれません。


 本文の最後の方に、「「言葉」「自分」「生死」と、あえて3つに分けてみたが、もとはひとつである。ひとつの真理の違う側面である。」と書いてあります。

 この「ひとつの真理」とは何でしょうか。


 池田さんのこれまでの文章から推測するに、おそらく「存在」を言っているのでしょう。「はじめに言葉ありき」「自分に対する他者の存在」「生死=有と無」、つまり、すべて存在とは何か、という究極の本質を考えることに繋がります。そして「存在」とは、これも簡単には結論が出る話ではないので(だから「考える」のですが)、やはり世間に通じにくいのは仕方がないのかもしれません。