哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

聖愚者

2012-08-29 01:56:32 | 時事
文藝春秋誌に掲載された芥川賞受賞作品「冥土めぐり」を読んだ。この小説は聖愚者をテーマにしているという。身分不相応なセレブ生活もどきにより借金を積み重ねる実家の家族に対し、働くことさえ出来なくなった知能の低い夫が、むしろ主人公の精神的な救いになるというストーリーだ。そもそもフィクションはあまり好んでは読まない方だし、文体もあまり好きではないが、意外に読みやすいスタイルなのか、スルスルと読み終えた。


知能の低い愚者とされる人が、むしろその正直さと真面目さゆえに成功する物語は、意外と世界に多いのかもしれない。映画ですぐに思い出すのが、「フォレスト・ガンプ」だ。愚者である方がむしろ成功するというのは、学歴が高く計算高くて狡猾なビジネスマンが成功するというような世間の常識の対するアンチテーゼなのだろうか。あるいは、何も考えない方が成功すると思う方が、現実の悩み事に翻弄される現代人の癒しになるのだろうか。


確かに現実に悩んでばかりであるならば、ノホホンと何も考えずに生きている方が幸せしれない。あるいは、池田晶子さんの言うとおり、悩むな、考えよ、というところだろう。

「円谷さんの死」

2012-08-19 00:06:00 | 時事
今月の日経新聞「私の履歴書」は、オリンピックの時期に合わせてかマラソン銀メダリストが執筆している。そして、昨日のテーマが「円谷さんの死」であった。


この自殺事件は、当時において衝撃的だっただろうし、今でもマスコミはメダルの期待で連日報道しているくらいだから、当時の国民の期待感はさらにものすごいものだったように想像する。東京で銅メダルになったあと、次のメキシコで期待されながら、故障して手術まで行い、結局周囲の期待に答えられないと悟って自殺してしまう。「疲れ切ってしまって走れません」という遺書の文言が、本当に痛ましい。


この事件は多くの書物になっているようだが、こちらは同じ時期にマラソンを走った、ある意味同僚であった人の文章として、短い紹介ながら無念さが胸にしみる。そして「私は円谷さんを救えたかもしれない人間の一人だったと思う。」と言わしめている。「そこまで自分を追い詰める必要はない」と言ってあげるべきだったと。


しかし想像するに、そう声かけたとしても容易に円谷氏は考えを変えないように思える。「君は健康で走れるから、そんなことが言えるんだ。僕の気持ちなんてわかりはしない。」と言われそうだ。所属先からも家族からも期待されて、自らの存在意義が走ることにしかないと思っている以上、走れないことは自らの存在意義を失うことだ。その考えを本人自身が変えられない限り、結果は変わらないのだろう。本人の考えを変えることは、容易なことではない。しかし、あくまで「考え」なのだから、変えられないわけではない。


自殺者の多い今の時代においても、変わらず考えるべきテーマではないか。



『続・悩む力』(集英社新書)

2012-08-12 07:22:44 | 
 姜尚中氏のベストセラーの続編『続・悩む力』を読んだ。4年前に読んだ『悩む力』と同じように、漱石とウェーバーを主軸に論じている。さらには、フランクルのいう「態度」にも触れられていて、前作と同様の好感触に思えたが、どうも結論的な部分が首肯できなかった。少し引用してみよう。

「結論を先取りすると、人生に何らかの意味を見出せるかどうかは、その人が心から信じられるものをもてるかどうかという一点にかかわってきます。
 「悪」に魅せられてそれに手を染めることも人生の意味だとは言いたくはありませんが、個人や集団に実害が及ばないなら、差し当たり何でもいいのです。恋人でも、友でも、子供でも、妻でも、神でも、仕事でも。
 というのも、何かを信じるということは、信じる対象に自分を投げ出すことであり、それを肯定して受け入れることだからです。それができたときにはじめて、自分のなかで起きていた堂々めぐりの輪のようなものがブツリと切れて、意味が発生してくるのです。」(P.145)


 ここで言っている、信じられるものをもつという行為の対象が「悪」であっても実害が及ばないならいい、というのはとても肯定できないであろう。「悪」と定義できるのであれば、それは害があることになるからだ。池田晶子さんに言わせれば、誰にとっても害がなかろうとも自分にとってそれは悪いことだ、と指摘することだろう。また、信じる対象以前に信じられている「自分」とは何か、鼻の頭を指すことなく説明してみよ、とここのところも池田さんにバッサリ斬られそうな部分だ。

 むしろ、この文章より前に漱石の言葉として紹介されている「己を忘るるべし」(P.114)の方が、納得できる謂いだ。現代においても当たり前のように唱えられている、「自分探し」ということの不毛さを指摘しているようではないか。

スポーツはバトルか

2012-08-04 01:44:22 | 時事
ロンドンオリンピックが始まり、報道ではいくつメダルを取れたかが最大の関心事のようだ。その中でも中国やアメリカのような大国が多く金メダルを取るのは当たり前と思えても、北朝鮮が多くの金メダルを取っていることに疑問を呈する報道があった。相当数の国民が飢えで苦しんでいるはずなのに、スポーツに注力できる環境があるとは考えにくいからだ。その報道では、北朝鮮が躍進している理由として、金メダルを取れば破格の待遇を得られるが、負けると収容所行きになるという話だ。そのような話の真実のほどは知らないが、もしそうだとしたら、北朝鮮こそがスポーツを本気のバトルとして捉えていることになる。まさに生きるか死ぬかの争いをしているのだ。

もう一つ問題になっているのが、八百長だ。バドミントンで金メダル候補が無気力試合をしたとして失格になったり、なでしこジャパンも監督が引き分けに試合を持っていく指示をしたという報道がされている。あくまでスポーツとして闘うベキとするなら、このようなスポーツマンシップに違う行為は違反として排除すべきなのだろう。しかし、スポーツを本気のバトルと捉えるならば、あらゆる手段を使って勝ちに行くことが正当化されてもおかしくない。わざと負けて次の対戦相手の選択を有利にするのは、作戦として当然の行為となる。


もちろんスポーツをバトルとして捉えるのが正当だと言っているわけではない。ただ、オリンピックが国同士の戦争の代償行為のごとくなっている現状では、バトルとして捉えて行動する行為が出てきて当然だし、そもそも古代オリンピックも報酬目当てに八百長が盛んだったというから、人間のやることは2000年経ってもたいして変わらない証左とも言える。