哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

自分の消滅(週刊サンデー毎日今週号の「暮らしの哲学」)

2006-07-31 22:55:00 | 哲学
 適当にフォローしているサンデー毎日の連載ですが、今回もわかりやすいようでわかりにくい文章ですね。面白いのではありますが。


「絶対的な言葉は、誰が語っても同じである。意味は普遍的であるから、「自分」は消滅する。しかし、相対的な個人を超えた絶対的意味を掴んだ人が「語る」ときは、自らのスタイル=文体となる。」



 意味は普遍だが、語るときは自分の言葉でなければ、普遍=絶対を掴んだことにはならないというのですから、矛盾しているように見えますが、ごもっともですね。意味は普遍であっても、当然日本語と外国語は形態として言葉が異なるわけですし、同じ日本語でも人によって表現が微妙に変わるのでしょう。自らの言葉で真理を表現する、というのは普通の人である我々には結構高いハードルです。


 ところで小林秀雄さんを例に、池田さんは「文章には、花がなければつまりません。」と最後の方で書いていますが、これは何だか小林秀雄さんのパロディのような言い方に思えます。
 池田さんの文章には花があるというよりは、全く逆に、切れすぎる刀のような鋭利さがあります。あまりに切れすぎる刀は使い方が難しいのでしょうが、正しく用いればこれほど真実を切り出すにふさわしい言葉はありません。但し傷つく方々も多いのかも。

自殺のすすめ(週刊新潮今週号「人間自身」)

2006-07-29 19:55:25 | 哲学
 池田晶子さんの週刊新潮連載「人間自身」今週号は、「自殺のすすめ」という題でした。何だかますます過激な発言になってきています。大丈夫でしょうか。簡単に言えば、昨今の青少年犯罪の凶悪化について、あまりに「人間」の感じが欠落しているというものです。


「命の大事さがわからないというより、そもそもそれが命である、自分が命であるという認識がないのである。なぜそれが「殺す」というベクトルを持ち得るのか。
 世の中が嫌になった時、以前なら、だから自殺したであって、だから殺したではなかったはずである。自殺する感性は、その意味で内省を知っているから、まだ救いようがある。しかし自分が死ぬことについては吟味せず、他人を殺すことだけは自明であるというこの鈍感さが、たぶん昨今の変質である。
 子供にはとりあえず、これだけは教えておこう。人を殺したくなったら、自分が死ね。それが順序というものだと。」



 以前に「一度死ね」と書かれていた時は、自分が死ぬ=自分がないという事態を一度想像してみなさい、そうすれば生きることがどういうことか少しはわかる、と意味だったと思いますが、今回はまさに「自分が死ね」と言っています。そこまで救いようが無いというわけですね。

 ただ青少年に「殺す前に死ね」と教えてもねぇ。結局は青少年に一人で考えろ、というのは大抵の場合無理があるのでは?と思います。考えること自体は確かに一人でしかできないでしょうが、池田さんほどではないにせよ、身近に指南役の大人が必要ではないですか。それは、親でもあれば、学校の先生でもあれば、近所の誰かさんかも知れません。

 大人の指南役が青少年と共に考えるための道具が『14歳からの哲学』ですし、池田さんが各種媒体を通じて発する言葉でしょう。「自分だけ善ければよい」とばかり言わずに、引き続き頑張ってロゴス(真理の言葉)を発信していただきたいものです。

見たいもの見えるもの(週刊新潮今週号の「人間自身」)

2006-07-23 03:06:00 | 哲学
 池田晶子さんの週刊新潮連載「人間自身」今週号は、「見たいもの見えるもの」という題でした。冒頭からの話は要するに、わかる気がない、反論してやろう、という気構えの人と語り合うのは時間の無駄、とまず言っています。その後の文章でポイントとなるところを抜粋してみましょう。

「すべての人間は、自分の見たいものしか見られない。自分に見える見方でしか、世界を見ることができない。賢くなろうと思うなら、それに気づいて自分の見方を相対化し、他の見方を学ぼうとする。自分にはわからないことを言う人の言うことをわかろうと努めるだろう。」



 想像するに、池田さんのように有名になってしまうと、討論会等で質問と称して、池田さんの論理の綻びを何とかあぶり出そうと企む輩が出てきてもおかしくありません。でも大抵そういう場合の質問者は、自ら独特の用語定義や理屈をもって池田さんの論理破綻を導こうとするので、「前提が間違っている」ということになるのですが、それを指摘しても、質問者は頑固に自分の考えに固執します。池田さんにとっては、そんな輩と話すこと自体が時間の無駄、ということなのでしょう。


 自分の見方でしか世界は見ることができないとはいいつつも、我々は他の見方を学ぶことはできます。「わかる」ことしか知らないで終わらず、「わからない」ことを探究する気持ちがあればいいわけですね。自分がまだ「わからない」ということが「わかる」のだから、「わからない」ことも考えることによって「わかる」のではないか、とよく池田さんが言っているのはそういうことですね。

なぜ意味が「わかる」のか?(週刊サンデー毎日今週号の「暮らしの哲学」)

2006-07-21 05:07:40 | 哲学
 サンデー毎日の池田さんの連載はあまりフォローしていなかったのですが、今週号は面白そうなので取り上げてみます。なぜ意味が「わかる」のか?という題です。

 要約しにくい文章なので、キーフレーズを並べてみましょう。

1.言葉とはすなわち意味である。
2.意味とは端的に、それが「わかる」ことである。
3.意味を有するのは言葉に限らず、音楽も絵画も人の動作も同じであり、世界は意味に満ちている。
4.人が意味をわかることができるのは、意味が在るからである。
5.つまり、意味がその理解より先に存在する。
6.言葉(意味)というものの存在を理解したときに初めて世界は始まる(例えば、ヘレン・ケラー)。
7.物理的世界は、意味が存在しなければ、存在しない(現実世界の生と死も、意味以外の何ものでもない)。
8.世界とは言葉であり、言葉こそが世界を創っている。



 なるべく論理がつながるように引用すると、以上のようになりました。平易な言葉で語られていながら、語られている内容はまるで三段ロケットを噴射させるがごとくに超スピードで飛んでいっている感覚です(追いついていくのが大変)。

 三段ロケットの第一噴射で発射後、第二段噴射で加速するのは、5番目の文「つまり、意味がその理解より先に存在する」のところですね。言葉を理解することが意味がわかることだと思っていたら、意味があるからこそ言葉がある、というように、言葉と意味の地位が逆転します。「意味」という日用語がかえって理解困難に寄与しているのかも知れません。意味というのは、概念とか観念とかに言い換えてもいいのかも知れませんが、言葉以前のものを言葉で説明するのですから最初から困難な説明ですね。

 さて第三段噴射は、7番目の文「物理的世界は、意味が存在しなければ、存在しない」から8番目の文「世界とは言葉であり、言葉こそが世界を創っている」ですね。ここのところは、物理的世界に耽溺している我々には理解困難なところですが、もし「物理的世界が意味で創られているなんて想像できない」なんて言ったら、たちまち池田さんからしっぺ返しが飛んでくるんでしょうね。「あなた、想像することと、物理的世界を認識することのどこに違いがあるんですか!?」と。

探すのをやめよ(週刊新潮今週号の「人間自身」)

2006-07-15 07:46:20 | 哲学
 池田晶子さんの週刊新潮連載「人間自身」今週号は、「探すのをやめよ」という題でした。「自分に合う」仕事を見つけたいという一方で「自分探し」をしているフリーターやニートに対して「探すのをやめよ」というのです。ポイントとなる文を抜粋します。

「自分にあった仕事を見つけたいという一方で、自分がわからないから自分探しをするという。つまりわからないものによって、わからないものを見つけようというのだから、見つかる道理がないではないか。
 個性というものは、自分が見つけるものではなくて、他人が見つけるものなのである。自分としてはこうとしてしかできない、それが本来的な個性というものだ。
 人が自分の個性を知るのは、これは完全に逆説になるが、自分というものが「ない」と知ることによってである。自分というものは「わからない」ではなく、「ない」のだと一度思い知らなければダメなのだ。ではどうすればいいのかと問われれば、一言「一度死ね」。
 自分なんて「ある」と思うから、いつまでも探すことになる。しかしそんなものは「ない」、死んで「ない」と思うなら、探し回る道理もなくなる。できることしかしなくなる。いまここに居ることが全てなのだと知るはずだ。」




 一度死ね、とはまた随分過激な発言です。その後の文章でその内容の説明はしていますが、とぎときこういうぶっ放すような書き方をするので、池田さんを誤解する人もいるのではないかと思ってしまいます。ファンとしては面白いのですけどね。

 「一度死ね」とは要するに、生きることは死ぬことの裏返しであり、それは表裏一体であるから、自分が死ぬ=自分がないという事態を一度想像してみなさい、そうすれば生きることがどういうことか少しはわかる、と言っているのでしょう。さらに、死とは不確実な遠い将来の話ではなく、体の細胞が日々生死を繰り返しているように、また生まれたことが自分の意思ではないのと同じく、いつ突然死ぬかは人智の及ぶ事ではないから、今日死ぬかもしれない。つまり死は今まさにここにやって来る可能性があるから、生きるとは今ここに居ることが全てなのだ、と言っているのでしょう。

 本当に今日死ぬとなれば、計画的なことは何もできませんが、今生きていることが全てだと考えると、確かに自分にとって無駄なことは排除して、本当にしたいことに時間を計画的に行おうという意志を育むことはできそうです。そのような行為が他人から見て個性に映ると池田さんは言っているのでしょう。

私の神秘体験(週刊新潮今週号の「人間自身」)

2006-07-08 10:44:13 | 哲学
 池田晶子さんの週刊新潮連載「人間自身」今週号は、「私の神秘体験」という題でした。ポイントとなる文を抜粋します。

「科学により説明できないことを神秘だ、凄いと感じるのは、本当の神秘を感じていないからである。オーラやカルマや臨死体験を神秘だと言うなら、自分が存在していることは、どうして神秘ではないのか。
 本当の神秘とは、一輪の花が咲くことであり、地球が廻っていることであり、我々が生まれて死ぬことである。そんなことは科学で説明できると思っている、その時点で道を誤っている。当たり前の神秘に驚かずに、人生の意味と理由が理解できるはずがない。」



 表題の「私の神秘体験」というのは、まさに自分が存在していること、を言っています。これを、科学で説明できる、と思う誤謬を池田さんは繰り返し書いていますね。

 念のため説明しますと、生物学的には精子・卵子の結合により、人間の個体が生成されていく事実は説明できます。しかし、「精子・卵子の結合により人間の個体が生成する」のが何故起きるのか、については一切説明できません。そもそも地球上に何故生物が存在するようになったのか、その理由もわかりません。

 つまり、どうして(どういう因果の流れで)そうなるのか、は説明できても、何故そうなるのか、については地球上にはわからないことだらけです。地球上には神秘だらけというわけです。

 その身近で最たる神秘が自らの存在です。父母から生まれたと説明できても、物心付いて自分だという認識を始めたとき、その「自分」がなぜこの自分なのか、全く説明できません。この不思議に感嘆すれば、谷川俊太郎のような詩人が生まれるのでしょう。哲学の池田さんと詩人の谷川さんとは、感性が似ているような気がしてなりません。