哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

増税が公共投資へ?

2012-07-31 01:01:44 | 時事
 待った無しの消費税増税だったはずなのに、増税分余裕ができるから、増税による経済の落ち込みを避けるため、公共投資をしようという政治の動きを報ずる報道があった。しかもそのように主張するのが、民主党の議員もいれば、自民党の議員もいた。

 なんだ、結局地元への利益誘導しか頭にない国会議員が多いらしい。確かに以前に新聞記事で、かつてこの国は増税をするたびに借金返済に回さず公共投資に回してばかりきた、と指摘した経済学者がいたが、全くその通りの展開になっている。これでは、グッチーさんの言っていた通り、増税で財政再建できた国は過去にない、という話のほうがもっともだったということになる。

 増税による財政再建なんて、政治家はもちろん財務省も元からやる気はなかったのかもしれない。財政支出も減らさないと意味がないのが前提なのに、余裕ができたからと称して増やそうとする意見が出ること自体あきれる。一体どこに余裕があるというのか。借金ができるならできるだけする、増税ができるならできるだけする、というのが彼ら政治家と財務省の考えだったとすれば、余裕があるという説明もつく。増税も借金ももうできなくなって、どうしても財政支出を減らさなくてはならなくなって初めて減らせばいいという考えだということになるからだ。

あのギリシャから富裕層が脱出をはかる準備をしているとの話だが、増税と借金が増え続ける日本からも脱出する人が増えてもおかしくないような気もしてきた。

スポーツとバトル

2012-07-24 03:32:00 | 時事
今月の文藝春秋誌の塩野七生さんの連載のテーマは、ロンドンオリンピックにちなみ、スポーツとバトルの間についてであった。オリンピックでの戦いを、単にスポーツとして捉えるか、それよりも真剣なバトルとして捉えるかによって、勝とうとする本気度が違うという。塩野さんによれば、日本は他の国に比べて、スポーツとしてしか捉えていないから勝てないというのだ。さらには、裕福で心配の少ない国ほどバトルに真剣にならないためか、スポーツの勝負に勝てないという。また、生活に心配のない国ほど、今度は残忍な虐殺事件が起きてしまうとして、ノルウェーの乱射事件を取り上げている。そういえば、いまだに日本でも無差別殺人事件が続いているし、つい先日アメリカでも映画館での乱射事件が発生した。

そもそもオリンピックは平和の祭典と謳っているから、国家間の戦いのように考えるのがおかしく、常々池田晶子さんが書いているように、国別対抗のような扱いを無くすのが筋であるように思える。しかし、オリンピックが戦争の代償行為となり、塩野さんのいうように、市民の闘争心のはけ口となるようであれば、それで本当に実際の戦争行為や虐殺行為が減るならば賛成できそうな話である。では果たして、スポーツを真剣なバトルと考えて戦うようになったとして、それで本当に戦争が減って世界や社会の平和につながるのだろうか。

この点はどうしてもまだ得心がいかない。オリンピックが真剣なバトルになれば、それがかえって国家間の感情的な対立として戦争の火種になりかねないように思うし、仮にオリンピックで闘争心を解消できても、現実の資源や領土を巡っての争いがなくなるとは考えにくいからだ。

確かに塩野さんの書いているように、明日の暮らしにも不安があるような国内状況の国では大量殺人が起きないというのはわかるが、かつて第二次世界大戦へ突き進んだドイツのように国内の不安や不満が国外への侵略行為に転嫁してしまうケースもあり、国民の生活状況の困窮が闘争心のはけ口としてうまく機能する保証もなさそうに思える。


かつて近未来を扱った映画で、戦争や殺人が無くなって社会が平和になったかわりに、選ばれた戦士が合法的に殺しあってそれを観戦するスポーツが行われているというのがあったように思うが、このようなスポーツが実際にあったとして、おそらくそれを現実に摘要しようとする輩が出てくるのが世の常であるように、どうしても思えてくる。

無戸籍の人

2012-07-17 23:03:30 | 時事
無戸籍の人をテーマとするドラマが始まり、少し見たが、非常に印象的なシーンがあった。主人公が無戸籍を通告されるところで、戸籍が無ければ死亡診断書を届ける先もなく、存在しないのと同じだ、と言われるシーンだ。確かに指摘の通り、生きていることを前提としたあらゆる行政関連手続きが行えず、死ぬことさえも手続き的にできないから、最初から無であるかのような感覚に囚われる。

無戸籍だから存在しない、という意味は、日本国民という意味で存在しないことになるのだろうか。しかし、外国籍もないわけだし、親が日本人として存在する以上、無国籍というのもありえないように思える。ただ、日本国民としての各種行政サービスが受けられず、参政権もなければ統計上の日本国民にもならないというだけである。今「だけである」と書いたが、これだけでも、そうとう不便ではあると思うが、想像するしかないのでよくわからないところもある。


それにしても、戸籍がないと存在しないのと同じ、という言い方は、池田晶子さんにかかったらもっとばっさり斬られそうだ。戸籍によって日本人であったり、名前が与えられたりしなければ存在しない、というのは、そもそもそのようにしてでしか存在できないと本人が思い込んでいるにすぎない。人はなぜ自分を日本人だと思っているのか。


「むろん私は日本人である。アメリカ人でも中国人でもなく、日本国籍を有する日本人である。しかし、それは、池田某が日本人であるのであって、「私」が日本人であるのではない。「私」は何国人でもない。どの国家どの民族にも属してはいない。」(『考える日々』「自分が何者でもないということを」より)


『8 はじける知恵』(あすなろ書房)

2012-07-10 06:38:00 | 哲学
前回紹介した本と同じシリーズの掲題書籍にも、池田晶子さんの文章が載っている。『考える日々』からの文章だ。今回は、若い人からの手紙を紹介し、お勉強としての「哲学」ではなく、自ら「考える」ことを実践している若人が増えていることを素直に喜んでいる。
また、同じようなことを考えている人は少なくないとしながら、表現には個性が出るはずとも書いている。確かに、有名な哲学者も含め、池田晶子さんの言う通り、人間の言語と文法によって存在を考える限り、そんなに違ったことにはならないはずだが、逆に表現が様々な中から正しい哲学原理を把握することは、むしろ情報量が増えるほど物理的には困難になるかもしれない。本屋の膨大な書籍の中から、池田晶子さんのような文章に出会えるのも偶然な邂逅である。真っ当な表現に確実に出会うには、やはり古典に回帰することなのだろう。
それにしても、今回池田晶子さんらしい文章だと思うところは、人類の進化について言及している点である。池田晶子さんはよく、「賢く」なっていない人類の行為を指摘することも多いが、今回は、後の人類ほど賢くなっているはずという知恵の進化論みたいなものを仮説として書いている。池田晶子さんがいくつか提唱している仮説の一つである。この仮説がいずれ証明されるかどうか、は「考える」若人に期待するところだ。

『6 死をみつめて』(あすなろ書房)

2012-07-02 22:19:19 | 哲学
「中学生までに読んでおきたい哲学」というシリーズのうちの1巻として、掲題の本が書店に並んでいる。この本のことは先日ある新聞の広告欄で知ったのだが、いろんな人の文章の寄せ集めであり、なんと池田晶子さんの文章が載っているというので、入手してみた。

池田さんの文章は「無いものを教えようとしても」というもので、『考える日々』からの文章だった。編者があとがきで各文章を評しているが、池田さんの文章については面目躍如と好評価しているようだ。

ところで、気になるのは他の人の文章との相性だ。埴谷雄高氏や河合隼雄氏など、池田さんと親和性の強そうな人の文章もあるが、他の人の文章はどうだろうか。

かつて中学生向けの、いろんな人の文章の寄せ集めという点では同様な『中学生の教科書』という本で、池田晶子さんは自らの主著となる『14歳からの哲学』の一部にもなる文章を書いているが、それを後に「寄稿扱い」としている。その理由は、『中学生の教科書』に掲載した他の作家の文章内容が、池田さんにとって「同意しかねる」内容だったからだ(詳しくは、『考える日々Ⅲ』の「換金できない言葉の価値」を参照)。

今回の表題の本も、大変多くの作家らの文章の寄せ集めであるが、全体的に池田さんが同意してくれる内容なのか、池田さんは死についてよく書いていたから、ちょっと心配ではある。