哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

密約

2010-03-31 23:01:10 | 時事
 日米安保に関係する密約の話が喧しい。池田晶子さんも取り上げそうな話題だが、どのように切り込んだだろうか。

 国家政策に機密はあるだろうし、国家間の外交においても機密はつきものだろう。外交が友好親善だけで済む話なら、胸襟を開いて話せばいいだけだが、経済問題にしろ軍事問題にしろ、交渉ごとも多くあるわけであるから、秘匿すべき情報も多いだろう。民主主義国家だからといって、何でも国民にオープンにできるわけはない。

 その代わり、国民はそのような政治も安心して任せられる政治家を選ぶことが大事となる。そのような政治家を選挙で選んでいるかというと、果たしてどうか。タレント政治家や地元利益誘導型政治家をえてして選んでいるのでは、国民も政治家もレベルが知れている、との話は池田晶子さんも書いていたことだ。


 ところで、塩野七生さんは文藝春秋の連載で、密約があったからこそ沖縄は平和裡に日本に返還されたと思う、それができなかったから北方領土は返還されなかったのかも、と書いておられた。確かにそうなのであろう。さらに、密約というウソをついてでも、つまりは自分は地獄に落ちてでも国民を天国に行かせる、というくらいの覚悟がある指導者でなければ、リーダーに値しない、と手厳しい。

 そのような政治家がいないとすれば、そのような政治家を選べない国民でしかないということになってしまうのだろう。

『超訳 ニーチェの言葉』

2010-03-22 10:24:00 | 時事
 表題の本が今自己啓発の本として売れているそうである。これまでも何度か本屋で手にして中をパラパラと読んでみたのだが、インパクトのない自己全面肯定的文章の羅列にあまり興味が持てなかったので、買う気になれないままである。新聞の書評欄では、究極のポジティブシンキング本であるという。要するに、最近よく目にする「カツマー」にも通ずる「励まし系」の一環なのか。しかし池田晶子さんに言わせれば、自己をポジティブに捉えようとする以前に、確固として信じられている「自己」とは何なのかを考えてみたらどうか、ということになろう。


 池田晶子さんがニーチェについて書いている文章といえば、『考える人』が代表的だ。少し長いが抜粋して引用してみる。

「ギリシャ人は「在る」とは何かを考えた。中世、「在る」は「神」と同じになった。デカルトが「神」のこちら側に「自分」が在ることに気がついた。そして、ニーチェは「神」を殺して「自分」が神になった、なろうとした。・・・「神」とは、認識すなわち行為するための仮留めの釘に他ならないのであって、釘がはずれてタガがバラけてしまえば、私たちは何ひとつ、認識できない。より正確には、神である自分には敢えて認識する「必要」がもうないのである、もちろん、そんな自分が「在る」ことの理由も見事に霧散する。・・・それでも、ふいと、「在る」ことを持て余すようなときには、何でもよい、そのつど自分で価値をでっち上げながら、世界は最初からそのようであるか、そのようにあるべきであるかのように振舞ってみるがよい、そうすれば世界はそのようにあるであろう、ニーチェが「力への意思」と言っていたのは、そのことに他ならない。」


 ここで池田さんは「神は死んだ」「力への意思」について端的に解説している。このように、存在とは何か、自分とは何か、を考え始めたら、安易なポジティブシンキングにはならないだろう。ただ、それを考えさせる文章になってしまうと、『超訳・・』は古典と同じ売れ行きにしかならないだろうが。


 ところで、ある本屋ではこの平積みの『超訳・・』のすぐ隣に、池田さんの『無敵のソクラテス』が置いてあった。装丁も似たような黒い表紙だし、同じシリーズのようにも見えてしまう。これで『無敵のソクラテス』も一緒に買って読む人が増えてくれるとうれしい。

「坂の上の雲」の「明るさ」

2010-03-13 10:14:41 | 時事
 今日の日経新聞のあるコラムに掲題内容が紹介されていた。

 漫画家の黒鉄氏や映画監督の篠田氏などが参加したシンポジウムで、小説の「坂の上の雲」がテーマである。この小説での「明治人の凛とした生き方」や「主義・主張を嫌い、合理的精神を評価」した内容に、「明るさ」があるという。さらに「若い人たちよ、あなたがたはやってくれるはず」というのが司馬さんのメッセージだという。


 池田晶子さんも、若い人や子供たちに未来を託していたのは同じである。

 「坂の上の雲」の「明るさ」に対抗して、池田さんの一連の著作をあえて一言で表現すれば「透明さ」であろう。「透徹」と言い換えてもいい。よどみのない的確で鋭い論理と澄み切った清涼な倫理を持った文章は、その透明感が印象的で、一種爽快でもある。しかしその透徹さは鋭い刀でもあり、油断しているとこちらもばっさり切られる。池田さんの文章を嫌う人もいるが、それはばっさり切られた人たちだろう。

外国人選挙権

2010-03-10 00:20:00 | 時事
 ちょっと話題がKYなのかもしれないが、一時期批判続出だった永住外国人の選挙権に関する話題は、内閣の支持率低下と小沢幹事長の辞任問題などで消え入りそうな雰囲気もする。


 そもそも、民主主義制度における選挙権について池田晶子さんはどう書いているかというと、例えば『さよならソクラテス』では、選挙権は権利なのかと問い、その行使をするように強制されるのであれば、権利ではなく義務となるとする。権利であれば投票するしないも自由だし、そもそも多くの国民が投票に行かないのは、ただでもらったものにありがたみもないからだという。

 この辺りの話でよく思い出すのは、ローマ帝国末期において、全ての属州民にローマ市民権を与えた愚策だ。属州民は、特権のあるローマ市民権を得るべく日々軍務に励むなど努力をしたわけだが、時の皇帝は大衆の人気をとるためか不満を解消するためか、全ての属州民にローマ市民権を与えるとした。しかし、タダでもらったものは、有難みが失せる。ローマ市民権がステイタスでなくなってしまうと、ローマ帝国を支える根幹が揺らいでしまう事態となっていった。


 選挙権を権利として、皆が真剣に考えて1票を投じるようにさせるには、うんと選挙権取得のハードルを課せばよい。大事な1票であることをしっかりと自覚させるためだ。外国人どころか日本人の選挙権取得も、相当の努力を要するようにする。例えば、税金を一定額以上納めて初めて取得できるとか。だがそうすると、お金の力で権力を動かすことになってしまうし、そもそも選挙権の取得を制限したら、民主主義理念に反してしまうのだろう。

 池田晶子さんの嘆息が聞こえてきそうである。

のちにはみとれ

2010-03-03 21:33:33 | 時事
 今月の日経新聞「私の履歴書」は、ユニチャーム会長の高原慶一朗氏という。会社名は知っていたが、人物は全く知らなかったので、軽く読み流していたが、今日の内容は随分面白かった。

 氏は小さい頃、気丈な母親の叱咤激励で、勉強で一番を目指すガリ勉だったが、小柄なためよくいじめられ、泣いて帰ったそうだ。母親は、男が泣いて帰るのはみっともないとして、「のちにはみとれ」と言い返せという。そしてある日砂浜でいじめにあったときに、小さい声で「のちにはみとれ」と言ったが、いじめた方は「何を見せてくれるのか」とからかうので、悔しくなり「のちにはみとれ」と繰り返し、大声になったという。それでいじめもなくなったそうだ。

 「のちにはみとれ」とは、将来人間として大きくなって見返してやる、という決意を表したものだそうだが、これをいじめられていた子供が大声で叫んだときは、いじめた側もその決意ある言葉にひるんだのだろうか。きっとこの言葉に大きな力が宿っていたのだろう。


 つくづく言葉は力であり、命であると思う。またその言葉に魂を与えるのも、子供に接する親であり、また回りにいる大人であろう。池田晶子さんは言うまでもなく、子供たちにこそ未来を託していた。池田晶子さんの言葉を、是非多くの子供たちに届けたいものだ。