哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

北朝鮮

2011-12-27 04:04:04 | 時事
北朝鮮の国家主席の死亡が話題である。世襲を円滑に行いたいそうだが、そのために外交的に強行な手段をとってくるかもしれないとか、メディアではいろいろ予想されている。民主主義国家で世襲とは?と思ったが、これは日本の政治家でも(アメリカ大統領でも)同じことが行われているから、その点は大差ないのかもしれない。選び方は違うのだろうが。
ところで、池田晶子さんは、北朝鮮についても何度か取り上げている。


「で、北朝鮮からミサイルが飛んでくるかもしれない。
それがどうした。
やっぱり私はそう思ってしまう。ミサイルが飛んでくるからと言って、これまでの生き方や考え方が変わるわけでもない。生きても死んでも大差ない。歴史は戦争の繰り返しである。人はそんなものに負けてもよいし、勝った者だってありはしない。自分の人生を全うするという以外に、人生の意味などあるだろうか。」(『41歳からの哲学』「ミサイル、それがどうしたー北朝鮮」より


池田晶子さんにとっては、世界で起きていることは一蓮托生なのだ。上の文章の前に、戦争の時代は戦争を生きるしかなく、戦争は他人事ではない、というような言葉がある。本当は誰にとっても一蓮托生だ、というのが池田さんの謂いなのだが、それでも半分くらいは池田さんの体質がそう思わせるらしい。

一般人の我々が池田晶子さんと同じように考えることは、やはりかなりハードルが高いように思うが、それでも誰からみても正しい言葉は、自分なりに得心がいくまで考えるよりは他はない。そもそも、生きていることはどういうことか、自分とは何か、と考え始めることが体質ならば、それを考え始めること自体、池田さんに近づいてはいるのだから。


意見

2011-12-19 00:11:00 | 哲学
池田晶子さんは、意見を持たないと何度も書いている。


「私は、政治や経済や、広くは世の中一般の出来事について、「意見」というものをもったことがない。正確には、もつことができないのである。「御意見を」と訊かれると、いつもほとんど絶句する。
これはどうしてかというと、私は、考えているからである。そのことについて意見を言うより先に、そのことについて考えているからである。考えるとは、知ることである。そのことの何であるかを知るより先に、そのことについて言うことはできないのは道理であろう。」(『私とは何か』「「意見」を言うということ」より)


個人の意見を述べたところで、それが正しいものであるためには、万人にとっても正しいものでなくては、正しい意見とはいえない。つまり、正しい意見を言うためには、まず対象をしっかり考えたうえで、正しいことを知らなければならないわけだ。
そうすると民主主義のこの時代、政策を選んで自らの意見を選挙で表明するには、まずは民衆一人一人がしっかり考えて知らなければ、正しい選択ができない。しかし、国家機能は複雑高度化しており、政策の元となる情報を全て判断して選挙の票を投じることがどこまでできるだろうか。
すると、前回引用した項の別の箇所に、次のような文章があった。


「私は、「哲学的には」、「個人の意見」を無意味とみなすが、政治的には、様々な個人の意見があって然るべきだと思っている。」(『知ることより考えること』「絶叫首相とその時代」より)


政治であれば様々な意見があっていいというのは、池田さんの最初の文章からすると、少し後退した印象もあるが、民衆が行政上の全ての情報を得て正しい政策を選択するというのは不可能であろう。しかし、民主主義である以上、自らの責任で選挙に投票し、自分たちの決めたことには責任を負わなくてはならない。よって、結局は少ない情報でも、それを元に意見をもって選択しなければならないということになる。選挙だから、結局は言っていることに信頼を持てる政治家を選ぶということだろうか。政治家の言葉が重要になる所以か。


独裁の橋下氏

2011-12-12 01:55:55 | 時事
大阪のW選挙で、独裁でよいとまで自ら発言する橋下氏が圧勝したという。この話題は、池田晶子さんならきっと触れたであろう。いろいろメディアで評されるように、どこか小泉純一郎氏のやり方と似ている。小泉氏は自民党をぶっ壊すと言い、郵政民営化のワンテーマで解散総選挙を行った。橋下氏は、大阪市役所をぶっ壊して、大阪都を作るといい、その構想のワンテーマでW選挙を仕掛けたというわけだ。

小泉氏についてなら、池田さんも何度か書いているので、代表的なものを引用してみよう。


「命をかけていると絶叫する政治家に、人々はコロリと参ってしまう。私は改革に命を賭けている。改革を止めるな!
こう叫びあげられると、人々は、その「改革」の内容が何なのであれ、あるいはその改革はじつは改悪かもしれないのであれ、自らの判断を停止して、ついて行ってしまうのである。
ーーーーーーー
私は、政治家がスローガンを絶叫する時代は、よくない時代だと思う。政治家の本来は、複雑な利害関係の調整以外ではないのだから、スローガンの絶叫により切り捨てられるものが、多々あるに違いない。そのことに思いを到さず、当面のわかりやすいスローガンについて行くなら、遠からず破綻するのではなかろうか。」(『知ることより考えること』「絶叫首相とその時代」より)



橋下氏の選挙での主張も、行政システムの改革によって財政の無駄を省くというのだから、スローガンはわかりやすい。しかし、報道では多くの人が大阪都構想自体はよくわからないという。要するに、中身はよくわからないが、何かやってくれそうだという期待感による橋下氏への投票が大勢なのだろう。

わかりやすいスローガンで選挙を勝ったのは、今の民主党も同じだったかもしれない。配布したマニュフェストは結局実現不可能だったのに、政治主導というスローガンを掲げて圧勝した。そしてそれがその後破綻したのは、見ての通りだ。

わかりやすいスローガンで誤った選択をしないためには、どうすればいいか。スローガン以外の政治家の言葉に注目する他はないと思うが、いっそ選挙ではスローガンを禁止するということも考えられる。スローガンがなければ、選挙公約をもう少しよく考えて投票するかもしれない。


原子力は神か?

2011-12-05 02:55:02 | 
最近、「江夏の21球」をDVDでまた見てしまった。悲運の闘将が亡くなったからではなく、大澤真幸氏の『ThinkingO」10号の内容が3.11をテーマにした脱原発論で、その文章では、原発とキリストとノンアルコールビールと江夏の21球が一緒に論じられていたからだ。これらが一体どう繋がるのであろうか。ざっとまとめると、次のような感じである。


原子力発電は神の如く安全なものとして崇められていたが、それを、キリストが神のごとく崇められていたことに例える。しかし、キリストは処刑されて死ぬ。原子力発電も、キリストが死んだ如く、その安全神話が大震災により葬られたとする。また、原発はノンアルコールビールのように安全と信じられてきたが、実はアルコール入りであったというような、実は危険なものであることがわかった。そして、原子力発電を安全に運営できるという技術神話は、江夏の19球目のように、神がかり的な技によって原発を安全に運転できるとするような、現実にはまず不可能な前提なのであると。


どうやったらこんな突拍子もない比喩の発想ができるのだろうか。結果として、大澤氏は脱原発を支持するようだ。確かに、臭いものに蓋をするように現実を直視せず、根拠もなく安全や快適さの永続を信じてしまうことが、実際に多いのかもしれない。

池田晶子さんも、原発は絶対安全というのはありえないと指摘していたのは前に引用したとおりだ。池田さんが原発の将来についてどう考えていたのかはわからないが、きっと電気が不足するなら、それを前提に生活すればいいだけだ、と言うことだろう。電気が不足すれば、家庭の家電品の多くは動かなくなり、テレビやエアコン、パソコンなど、主に娯楽用や快楽的なものから利用できなくなるかもしれない。そうなったら、現代の生活状態から考えると確かに不便にはなるが、震災時には一時期でもその状況で生活していたし、そのような生活に戻ったからといって、「考える」ということそのものは全く揺るがないと言うことだろう。ブログやツィッターがなくなれば、むしろ質の悪い言葉の氾濫に歯止めがかかると、池田さんなら歓迎しそうである。