哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

2010年代を生きぬくヒント?

2010-11-28 15:19:00 | 
 前回、池田晶子さんの『残酷人生論(増補新版)』はお薦めではあるといったが、この本の外側の透明カバーに配されている宣伝文句が、池田さんにふさわしくない。これは端的に出版社の問題ではあるが、是非早期に見直してもらいたい。


 カバーにはこうある。

「あなたはまだ知らないのか?2010年代を生きぬくヒント。『14歳の君へ』の池田晶子 魂の1冊が、今増補新版でよみがえる!」


 この文章の中の「2010年代を生きぬくヒント」というのは、一体どういうつもりで書いてあるのか。「生きぬく」とは、他人を出し抜いて自分だけ生きようということなのか。あるいは、2010年代の社会においては、生きていること自体が困難だから、生き延びようということなのか。いずれにせよ、「ただ生きる」ことを価値と認めない池田晶子さんは、きっとこの宣伝文句には「喝!」と言ったことだろう。



「人からは(池田さんが)変わっていると思われるのは当然なのだ。なぜなら、人は多く、生活や生存がなければ精神性もないと思っているからである。
 そうでもしなければ生きられないではないか
他人事みたいに不満を言うから、私は答えた。
 そうまでしてまでなぜ生きるのか
生活や生存それ自体を価値として生きることができるなら、それで不満はないはずではないか。私は、精神性以外のものすなわち生活や生存それ自体、いわんや金銭や物品それ自体を価値として生きることが、どうしても、できない。」(『残酷人生論』「精神と肉体という不思議」より)



 池田さんは決して「生きぬく」ヒントなどではなく、「生きぬく」=生活や生存を最優先の価値とする愚かさを考えるヒント、を語っているのだ。そんな池田さんにふさわしくない宣伝文句を書いた人は、この本の中身さえ読んではいないのだろうか。





『残酷人生論(増補新版)』(毎日新聞社)

2010-11-21 01:59:59 | 哲学
 旧版の『残酷人生論』がいつの間にか絶版になっていて、今月それが増補されて復刊されていた。「古典のように売れている」はずの池田晶子さんだが、出版社によっては絶版になってしまい、それが別の出版社で復刊されていき、どうやら扱っている出版社が絞られていっているようだ。この本の巻末に著作案内があり、他の絶版になった著作がどう復刊されているかも紹介されている。


 増補といっても、加えられたのは一編だけで、しかも調べたら『死とは何か』に既に掲載されていたものだった。残りの文章はすべて旧版と同じだろうが、掲載順序がかなり変更されていて、目次も随分変えられている。とはいえ、以前にもこのブログで紹介した通り、もし池田晶子さんの著作を初めて読む人が大人なら、『残酷人生論』を是非薦めたい。しかも、旧版より値段も安くなり、ソフトカバーの新書に近いサイズだから携帯もしやすい。


 もちろん、池田晶子さんの主著としては、『14歳からの哲学』かソクラテスシリーズが挙げられるが、池田さんらしい諧謔的かつ逆説的言説がもっとストレートに堪能できる著作のうちの一つが、この『残酷人生論』なのである。

 題名の「残酷」の趣旨は、本文に書いてはあるが、少し引用して紹介しよう。


「考えるということは残酷なことである。ぐずぐず悩むことに人を甘やかさない、ありもしない慰めで人を欺かない、人生の真実の姿だけを、きちんと疑い考えることによって、はっきりと知るというこのことは、なるほどその意味では残酷なことである」(『残酷人生論』「プロローグ-疑え」より)


『ソクラテス』(岩波新書)

2010-11-15 07:19:50 | 哲学
 この本は、池田晶子さんがソクラテスシリーズを書くときに参照した本の一つだそうだ。読んでみると、実際のソクラテスがどんな人物だったのかを探し当てるべく、あらゆる文献から、その記述の妥当性も細かく吟味しながら検討していっている。データから実証されるソクラテス像を描くようなものだから、一種の科学的アプローチと言えるだろうか。その分、歴史的事実としてのソクラテス像については、おそらく間違いの少ない内容になっているのだろう。


 しかし、著者の田中美知太郎氏に対しては、池田さんは容赦ない批判を行う。『ソクラテス』の最終章の最後の方の一節を引用したうえで、田中氏が「正義」の中身についての話になってしまったところを、「生真面目な田中」と表現する。池田さんに言わせれば、「正義」の中身の側ではなく、その語として使用される形式の側に注目するのがソクラテスの方法だと。


「田中美知太郎には、考える者の「狂」がない。生きているということを考えている考えを考えつつ生きているそこに、なぜあらかじめ求められるべき「人間の真の幸福」が、あり得るだろう。それを目指して考えるべき何物かがあらかじめ知られているのなら、なぜわざわざ考える必要があるだろう。」(『メタフィジカル・パンチ』「田中美知太郎さん」より)


 『2001年哲学の旅』(新潮社)での藤沢令夫氏と池田晶子さんとの対談でも、田中美知太郎氏が取り上げられているが、田中美知太郎氏を一定評価する藤沢令夫氏と、批判を緩めない池田晶子さんとで、議論はやや平行線であった。藤沢氏によると、田中氏はギリシャ語原典まで遡って研究した最初の研究者だそうだが、池田氏にとってそれはあまり関係なく、哲学者として「考える」ことをどこまでできているかが重要なのだ。

Never to forget. Never to forgive.

2010-11-03 03:12:00 | 時事
 先日NHK教育テレビで、シンドラーのリストについてのドキュメンタリー番組が放映された。シンドラーについては、映画の影響もあってか、今まで人道的な面が強く意識されることが多いように思ったが、この番組は結構客観的に事実を追い、しかもシンドラーの戦後の足取りと、救ったユダヤ人との交流も淡々と紹介していた。

 シンドラーが実業家として成功していたのは、まさに戦時中にユダヤ人を使って工場を経営していたときだけで(しかも工場買収資金の出所はそのユダヤ人)、戦後にシンドラーが行おうとした事業はことごとく失敗し、救ったユダヤ人(アメリカやイスラエルへ行き、たいてい実業家として成功している)に頻繁に資金援助を依頼していたという。


 番組の中で繰り返し発せられ、しかもユダヤ人が一様に口をつぐんで答えようとしなかった問いが、「なぜシンドラーがユダヤ人を救ったか」ということである。ユダヤ人の中には、その問いを聞かれると腹が立つという人もいた。しかも、シンドラーの人物像は、酒や女におぼれ、ナチスに賄賂を渡すなど、クリーンなイメージがあまりない。つまり、シンドラーの人物像がどうしても、ユダヤ人を救うという人道的な態度に結びつきにくいのだ。

 番組の中では、シンドラーがユダヤ人を救うきっかけとして、工場近くの収容所でユダヤ人の子供が惨殺されるところを見たことに衝撃を受けたからだ、と話す人も紹介していた。もちろん事実かも知れないが、番組全般の中ではこの話は若干浮いているように思えてしまう。

 さらに、救われたユダヤ人たちは戦後もシンドラーへの恩義を忘れず、交流を続けたが、ここでも一点気になるエピソードがはさまれていた。戦後の戦争犯罪の摘発の中で、ナチスに賄賂を渡すなど、ナチスに協力していたユダヤ人も摘発されるようになった時期に、シンドラーに救われたユダヤ人も危機感を持ち始め、そのため、シンドラーを聖人にして追及を逃れる方策をとったという話である。

 実際シンドラーの工場では、武器も作っていたというから、そこで働いていたユダヤ人は、ナチスに協力していたと言えなくもない。ユダヤ人側としては、生き残るためにやむを得なかったということだろうが。


 ともあれ、シンドラーの人物像がどうであっても、ユダヤ人が救われた事実は決して無価値ではない。たいてい人間は多面的なものなのだ。ただこの番組を見て、大戦やホロコーストに翻弄され、命を落とした何百万人の人がいることの重みをあらためて思った。人間の業の深さだろうか。



 表題の言葉は、番組の中で親兄弟をすべてホロコーストで失ったユダヤ人が語った言葉だ。決して忘れない、決して許さない、と涙を浮かべつつ語る姿は、映画「七人の侍」でも出てきた「澄み切った眼差し」に通じるだろう。


 確かに、決して忘れてはならない。しかし、許さない、という言葉はどう捉えればよいのだろうか。ここでも「寛容」の精神は、決して受け入れられることはないのか。