哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

日めくり池田晶子 31

2008-04-27 19:25:00 | 哲学
 1~31までの日付に毎日異なる格言が記載された日めくりカレンダーを、池田晶子さんの言葉で作ってみてはどうだろうか。これをトイレに掛けておけば、毎日必ず池田晶子さんの言葉に接し、考えることができる。別に掛けるのはトイレに限らなくてもよいが、なんとなくトイレがお薦めな気がする。なにしろ1日が始まる場所なのだから。

 言葉の選定は大変だが、とりあえず「31」は以下で決まりだろう。



31 さて死んだのは誰なのか

 一生涯存在の謎を追い求め、表現しようともがいた物書きである。楽しいお墓ウォッチングで、不意打ちを喰らって考え込んでくれる人はいますかね。(『人間自身 考えることに終わりなく』「墓碑銘」より)

3分間池田晶子「私の始まりは受精卵なのか」

2008-04-13 19:09:00 | 哲学
 Nobodyのまた続き、「私」とは何か、についての文章である。クローン人間の話題に関連している。


「人が、「自分を自分であると思う」ということは、どういうことなのか。
 私の始まりは、受精卵なのだろうか。

 なるほど、この肉体は、受精卵から始まったかもしれない。しかし、その受精卵から始まったところのこの肉体が、私なのではない。ということは、私の始まりは、受精卵ではない。なぜなら、「私の始まりは受精卵だ」と考えているところのその「私」こそが、その始まりを問われているところのその「私」だからである。

 考えているところのこれ、常に既に存在しているところのこれ、これのことを、なんと呼ぶべきか、端的に、「自己意識」とでも呼んでおくのが、間違いが少ない。自分が自分であって、別の誰かでないのは、端的に、自己意識が別だからである。

 科学の言葉遣いにいつも引っ掛かるのは、そこで使用される「人間」という語の不明確さである。
「人間」とは何か。
 たんに、この生物的な形姿のことしか、言ってないように思う。しかし、この生物種としての見てくれが「人間」ならば、自分を自分であると思っているところのこれ、この自己意識が世界のどこにも属していないのは、いかなるわけか。」(『考える日々』より)



 自分のクローン人間は自分と同じか、というと、池田さんのいう通り、自己意識が違うのだから自分とは違う、ということである。つまり、肉体はクローンで同じにできても、「私」は異なる。

 一方で、自己意識とされる「私」という精神は、決して個別の肉体と同一ではない。これは繰り返し池田さんが書いている通り、例えば、腕を切っても「私」という精神がその分減るわけでないからだ。

 では、「私」という精神は一体どういう存在なのか。自己意識を持ちつつも、個別の肉体にとらわれない存在かもしれない。そして「考え」は宇宙を駆け巡るのか。

3分間池田晶子「宇宙は自身を考えるために」

2008-04-01 04:01:00 | 哲学
 Nobodyの、何者でもない自分とは、もしかして“宇宙”のことであったか、と思う文章がある。


「深海の魚は眼をもたないという事実を考えてみたい。彼らが眼をもたないのは、そこに光がないからで、光があるところに生存する魚は、眼をもっている。光があるから、光を見ようと、眼ができたのであって、その逆ではない。そもそもそこにないものについて、器官は発達のしようがない。

 他のすべての器官についても、そのようにして発達したと考えることができよう。

 それなら、脳だって、そう考えるべきではなかろうか。光があるから眼ができたように、考えが在るから脳ができたと、こう考えるべきではなかろうか。そもそも先に考えが在るのでなければ、脳など発達しようもなかったはずではないのか。

 明らかに考えのほうが、先なのである。「考えが物質をつくった」のである。宇宙とは、先に物質なのではなく、常に既に存在する「考え」なのである。

 これを裏から言えば、宇宙が脳を「必要とした」、ということだ。宇宙が自分を考えるために、人間の脳を必要としたということだ。もっと言うと、宇宙について考えているのは、もはやわれわれの「脳」ではないということである。

 ところで、すると、この場合、「われわれ」と言っているのは、誰なのか。いったい、何が何について何をしていることになるのか。」(『考える日々』より)


 上の論理の前提には、進化論の考え方があり、その考え方は現代の我々のパラダイムにおいては、しっくりくる内容である。そしてそれを前提にすれば、確かに池田さんの指摘のようになる。

 考えが在るから脳ができた、とは本当に至極もっともである。光や音や酸素のように、物質的なものに対して器官が発達した、というのはわかりやすいが、考えがあるから脳ができたというのは、思いつきにくいが言われれば確かにそうである。ただ、池田さんは「進化論的には」と前提を置いて話しを進めているので、唯脳論の養老さんの「脳ということにすれば」のごとく、「進化論を前提にすれば」というような留保的な意味合いであることも念頭においていた方がいいだろう。

 とはいえ、池田さんのこの文章は、考えというものが、一人一人の脳の中で完結する狭い存在でなく、大きく宇宙へと拡がるものであることを実感できるのである。