哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

国家は国民を守るのか

2009-08-30 11:25:11 | 時事
クリントン元大統領電撃訪朝に関して、メディアでは、国家は国民の命を守るためにこのように動くのが当たり前との主張が多く聞かれた。そして日本はそのようにできていないと。

国家の存在理由としては分かりやすい主張だが、一方で前回紹介した本にあるように、逆に国家のために国民の命を捧げるのが当たり前か、という問題が出てくる。それは国家ではない、故郷や家族のために命を捧げるのだ、とすればまだ納得感が出てきそうだが、しかし池田晶子さんに言わせれば、国家も家族も故郷も、同じように観念にすぎない。

そして、国家内で暴力が制御されたとしても(世界にはそこまでにも至らない国家・地域も多いが)、国家間の暴力の連鎖は21世紀になってもとどまることを知らない。

姜尚中氏は前回の本で、今や世界にはびこる暴力をどのように捉え対処するのか、を書いているが、明確な答えはない。歴史的には国家を作り、憲法を作ることによって暴力を手なずけてきた人類だが、国際間を跋扈する暴力を制御するには、まだまだ知恵が足りないのだろうか。

『姜尚中の政治学入門』(集英社新書)

2009-08-23 18:57:57 | 
 ほぼ毎週見ているNHK日曜美術館の司会役に、姜尚中氏が登場したのには少々驚いた。既にメディアでの露出が多い人だったが、基本的に政治学者としか思っていなかったので、いくらなんでも美術専門番組にレギュラー出演というのは違和感が強かった。

 しかし表題の本を読むと、姜尚中氏は徹底した論理の先に極めて強い感性を持っているように思い、美術に発揮される豊かな感性と共通するのでは?とも思うようになった。

 以前この人のベストセラーである『悩む力』を取り上げたが、この本はそれ以前の出版であり、いずれを読んでもそのしなやかながら強い感性が確かに共通するように思った。例えばこの本のあとがきには、「第六感」についての話があり、政治における感性を磨くことを、自らを例として述べている。


 さて、池田晶子さんの力強い言葉の一つである「人が国家を存在する、自分はそこに属すると思う、この思い為しこそが国家を存在させ、存在もしない国家を守るために闘おうという驚くべき本末転倒になるのだ」という言葉に接するとき、一瞬凡人である自分は思考停止に陥る。全くの正しい言葉を前に、一瞬絶句してしまうのだ。しかし池田さんは、有無を言わせぬ思考停止を求めているわけはなく「考えよ!」と言っているのだから、自分がそこから考え始めるしかない。

 確かに、人間は歴史上国家を作り、そして憲法を作ってきた。そして今自分のいる、日本国憲法を有する日本という国家というものについて、またアジアについて、あらためて考える材料としてこの本は大変有益である。

ソクラテス裁判

2009-08-15 22:02:50 | 哲学
ソクラテス裁判という本について、『睥睨するヘーゲル』に文章がある。

この本が、ソクラテスが反民主主義を信念としたと解釈したことについて、池田さんはお得意の創作ダイアローグで応じている。

端的に言えば、ソクラテスは言論の自由を認めているが、しかし、言論の自由に訴えて命を守ろうなんて考えてはいない。陪審員の心証を逆なでしようがしまいが、言論の自由をまさに行使したのだと。

これを本当の「言行一致」という。

ソクラテスの死

2009-08-14 16:46:16 | 哲学
前回『孔子』で触れた「ソクラテスの死」に関する記述はこうだ。

「ソクラテスもまた、逃亡によって生を永らえ得るにかかわらず、自ら甘んじて不正なる判決に従い、その倫理的覚醒の使命の証しとして毒杯を飲むのである。」(『孔子』岩波文庫より)

和辻氏はこのように、ソクラテスにおいても(イエスや釈迦と同じく)その死が重大な意義を担っており、従ってその死に方がそれぞれの(人類の)教師の特性を示す、としている。

しかし、池田晶子さんはこう書いている。

「かくして毒杯を仰いだとプラトンの筆によって記されたソクラテスを、後二千年間人々は、「正義に殉じた真実の人」と讃えている。すなわち、未だもって殺し続けているのである。」(『メタフィジカル・パンチ』以下の引用も同じ)

未だもって殺し続けている、とは随分な言い方である。その死に意義があるとの見方については、何らソクラテスの真意を解していないというのだから。

ではソクラテスの真意とは何か。池田さんは、「語を定義しないまま、いかに正確に使うか」をソクラテスの方法だという。そして、「現実とは言葉なのだから、生きるということは言葉を生きることである」とも。

確かに定義されなくても、我々は明らかに言葉を生きている。定義以前に既に言葉を知っている。これは一体何なのか。

ソクラテスはいざ知らず、池田さんが形而上から形而下に降りてきた巫女に思えるのは、このような言質が豊富だからだろう。


『孔子』(岩波文庫)

2009-08-04 23:50:40 | 
白川氏の『孔子伝』を読んだからには、和辻氏の『孔子』を読んでおかねばならないだろう。本当は読む順序は逆だが。

出だしから世界の四聖としてイエス、釈迦、ソクラテス、孔子が取り上げれており、その世界的視野の広さが圧倒してくる。彼ら自身やその後世への波及についての比較も大変面白く読める。

池田さんに言わせると、この本の中でのソクラテスの死については通俗的見解にとどまっているが、全体として孔子や論語の秀逸さを引き出していて、その点では大変素晴らしいと思う。本当に論語を読もうという気にさせる。また、孔子はシナの話しなのに、何となく「東洋」としての誇りを日本人として感じてしまう内容だ。

もちろん孔子について読むべき本としてならば、圧倒的に白川氏の『孔子伝』を薦めるだろう。

『孔子伝』(中公文庫)

2009-08-01 14:10:30 | 
 白川静氏の文章は決して読みやすいとはいえないが、その博識に裏付けられた的確な指摘は知的興奮を覚える。

 孔子は、イエスと同じく敗北者であるという。敗北者であるからこそ、思想を極限まで高められたというのだ。

 また、孔子は、ソクラテスと同じくイデアを追求したという。ソクラテスはノモス(法律)の命ずる通り死することによって、イデアの存在を証左したが、孔子の時代はまだ社会がノモス化しておらず、孔子は現実の敗北者となることによってイデアに近づくことができたというのだ。

 さらに、孔子は巫祝の出身で、儒家はもともとは祭礼や葬礼を仕切る集団から発生したそうだ。それは下層の民でもあるという。儀式というのは神との言葉のやり取りであり、存在の根源としての生の神秘にも関わることから、高遠な思想へと昇華されていったのだろう。


 白川氏の硬質な文章から、人間的な魅力のある孔子が描き出されているのが、本当に不思議である。

その名を口にしてはならない

2009-08-01 08:30:00 | 時事
 先日映画のハリーポッターを観たが、映画の中でよく出てくるお馴染みのセリフだ。

「みだりにその名を口にしてはならない」というのは、悪の権現であるその名を口にすると、禍が起こるということだ。

 ハリーポッターは、古代のイギリスの魔法使い伝説を基にあるから、古代人の言葉に関する畏敬の念が現れているのかもしれない。そもそも呪文というのは、まさに言葉の力そのものを信じたものだろう。

 現代においては、名前を口にしたからといって禍が起こるとストレートに信じることはないだろうが、現代人でも自分の姓名を安易に教えたり、他人に口にされたりすることを、嫌に思う認識があるのではなかろうか。これは何となく古代と同様、名にすくう言葉の力という観念が残っているようにも思える。

 もちろんプライバシーの概念や個人情報保護法というのは、近代の人権主義の産物だろうし、犯罪防止が主眼だろうが、自分の名前をみだりに教えたりしたくないという観念は、単にプライバシー保護や犯罪防止というような割り切った感覚以前のものがあるような気がしてならない。