哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

菅降ろし

2011-04-27 01:41:41 | 時事
 震災対応などでリーダーの資質に欠けるとして、菅降ろしが強まっているという。この国の政治では、自民党政権時代からもそうだが、何かとこういうスケープゴート探しがよく見られる。

 正直言って、今の時期に首相交代したとして、誰か他にふさわしい人がいるのだろうか。失礼ながら誰がやっても同じでは?としか思えない。報道も断片的なのかもしれないが、代替案もなく首相が辞めれば復興が進む、という見解は理解に苦しむ。日本が一丸となって対応しなければならないといいながら、政治が最も分裂しているようにしか見えない。


 塩野七生さんも、先月下旬に書いたそうだが、「勇気があれば禁じ手でも使える」として次のように書いている。

「禁じ手の最後は、五年間とでも期限を決めて、与野党の壁も取っぱらってしまうことである。自民党は党首の入閣を拒絶したようだが、菅首相の延命に利するとか言っている場合ではない。菅首相の延命と日本の延命を秤にかけてみれば、計りようがないことは誰にもわかる。」(塩野七生「日本人へ・九十六 今こそ意地を見せるとき」より)


 とはいっても、これまでの例からすると、そのうち菅首相辞任となり、首相交代の頻繁さが外国からは不信感で見られている、との報道がまた多くなされるのだろう。


 政治にさして関心がなかった池田晶子さんの文章を少し紹介しよう。

「そもそも、民主政体というもの自体を、私は信用していない。全員が平等に自分たちの代表を選び、全員で国政を運営するなんてことが可能であるとは思われない。我々はそれほど賢いものか。人は自分にふさわしい代表しか選べない。その証拠に、見よ、選ばれるのは、芸能人であり、スポーツ選手であり、あるいはその他「知性溢れる」政治家たちである。
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 とはいえ、民主制に代わる別の政体が望ましいと思っているのでもない。独裁制や共産制がいいわけでもないし、そんな代案は何もない。いや代案は完全に「頭の中に」しかない。いつも言う通り、そも「国家」というもの自体が、「頭の中の」作り事だからである。人が忘れているそのことを思い出さない限り、人間が自由であり得る政体はない。」(『知ることより考えること』「選挙だってさ」より)

二次災害の死

2011-04-24 01:24:24 | 時事
 大震災で災害医療に従事した看護師のブログ(http://blog.goo.ne.jp/flower-wing)を読んだ。映像や写真等の報道でも感じられた廃墟のような現場の状況に、まさに一人の人間として向き合わざるを得ない様子が痛々しく伝わってきた。

 瓦礫の中から多くの遺体が出てくる様子は、さすがに映像では報道はされていないが、文章ではあちこち目にする。さらには高齢者も多いため、医療環境が不十分な中で避難先で亡くなる人もいる。また救出作業中の作業者が、過労もあってか現場で倒れて死亡したとの報道もあったようだ。


 実は知人の近所の方が、宮城県の被災地に大量の援助物資をトラックで運んだ帰りに、疲労による居眠りをしたのか、センターラインをオーバーして対向車と正面衝突し、その人が死亡した事故が先月下旬に発生した。大震災がなければこのような事故もなかったかもしれないが、交通事故そのものは自分の方が100%悪い事故だから相手から損害賠償は受けられないし、この死亡者の家族には大震災の義捐金が配られることもないのだろう。しかし、大震災の二次災害とは言える。同様のことは結構起こっているのもしれない。


 震災であろうと事故であろうと容赦なく死は訪れる。しかも理不尽な形で誰をも巻き込む。そして、我々は死を選べない。

 その「死」については、池田晶子さんは何度も書いている。

「人は自分の死に方を選べるとどうしても思ってしまいますけれども、本当は死に方を選べない。なぜならば、選べるのは生き方なんですよ、あくまでも。どんなふうな死に方をしようかと言いながら、選んでいるのは、まだ生きている側ですからね。だって、生きているんだから、死んでいない限り生きているわけですから、選べるのはあくまでも生き方であって、じつは、生の側を我々は選んでいく。生きている限り死んでないからです。ですから我々は、死に方はじつは選べない。正確には、死を選べないのです、私たちは。・・・死というのは、人間の意志と理解を超えた向こうからやってくる出来事です。そうなんです、これはよく考えると、本当にそうなんです。向こうから来るもので、我々が選んで向こうへ行くものではないのです。ですから、尊厳死という言葉がありますけれども、これを言う人というのは、どうも死そのものの絶対不可解さ、つまり死への畏れ、というのをちょっと忘れているのかなという感じが、私はします。この不可解を思い出すことで、人は自然に対して謙虚になれるはずだと思います。」(『死とは何か』「死とは何か-現象と論理のはざまで」より)


東日本大戦争?

2011-04-17 10:00:00 | 時事
 これは戦後だ、との表現がいろんなメディアで目立つ。地震とくに津波で、一面焼け野原のように街が消えてなくなった状況が、太平洋戦争での本土空襲や敗戦を思い起こさせるからだろうか。あるいは、かつて戦後の焼け野原から日本が経済大国になったように、自信を取り戻そうということか。今月の文藝春秋誌でも、いろんな識者が震災を敗戦とか戦後と結びつけているが、あの塩野七生さんも同じ表現をしていた。

「未曾有の国難は、新旧世代の交代にはチャンスでもある。戦争どころか、戦後も知らないと言う世代には、これが「戦争」であり、この後にくるのが「戦後」だと言いたい。」(塩野七生「日本人へ・九十六 今こそ意地を見せるとき」より)


 そこで、確かにこれは戦争かもしれないと思い直し、太平洋戦争との類似点を考えてみた。まずは、相手は地震と津波なのだから、敵は大自然の脅威であり、とても人間にとっては勝てる見込みのない戦争である。太平洋戦争も勝てる見込みのないアメリカを相手に戦って完全に負けたのだから、その意味でまさに完膚なきまでに打ちのめされた敗戦である点は同じと言えよう。

 また原発対応も含め、政府の対応に問題があるとか東電による人災だとの表現もあるが、そうすると敵は日本国民の内部にあったのかもしれない。太平洋戦争でも、日本軍部の暴走が止められなかったことが無謀な戦争への傾斜になっていったというのだから、この戦争は内なる敵による敗戦という意味でも同じかもしれない。

 さらにグラウンド・セロとの表現も聞かれる原発事故対応は、まだ戦時中なのかもしれないが、作業員の「見えない敵」という言い方が象徴的である。そして何年かかかって廃炉になって更地となった場所には、あの石碑がふさわしいかもしれない。「過ちは繰返しませぬから」と。広島の石碑も主語がなく、一体誰の過ちなのか(アメリカか?日本か?)不明と揶揄されるが、今回の過ちは、災害対応策か、それとも原子力政策か、それとも何であろうか。


 以上の通り考えてみて、震災を敗戦とか戦後とかに結びつけることはよくわかるが、結局戦争という表現をしたとしても、人類史上戦争が無くなることはなかったように、つまりはある日常の一風景を言っているにすぎないのかもしれない。


「なるほど戦争では大勢の人が死ぬけれども、平和な時でも人は死ぬ。交通事故や脳卒中で、しょっちゅう人は死んでいる。生まれた限り、人は必ず死ぬものであり、人の死亡率は一律に百パーセントである。この絶対確率平等的事実の側からみれば、いつどこでどのように死ぬかは偶然、平たく言えば、運である。
 我々は、たまたま、運よく、平和の時代を長く享受できていたという、それだけのことではなかろうか。なるほど、日本もこれから戦争に無縁ではなくなるのかもしれないけれども、歴史とはそういうものではなかろうか。自分だけは別だ、別のはずだったと思うのは、自分にだけは死ぬということはないと思うのと、同じところの無理なのである。」(池田晶子「なぜ人は死を恐れるか-戦争」『41歳からの哲学』より)



人はパンのみにて生くるにあらず

2011-04-09 02:38:20 | 時事
大震災の影響で多くのイベントが中止になるなか、あえて開催された小規模なコンサートに今月初めに行って来た。チェロのみのソロコンサートだったので、非常に小さい会場であったが、本来のもう少し広い会場が地震で使えなくなったために、急遽会場変更になったものだ。100人以上が来場したそうだが、完全に満杯状態であった。主催者によると、津波の被災地からわざわざ聞きに来た人もいたそうである。


チェリストが挨拶で述べていたところによると、コンサートをあえて開催することにブログ等で批判もあったそうである。今は音楽を行う時ではない、必要なのは毛布と食料である、と。そのチェリストは、もちろん様々な意見があることは承知しながらも、音楽家にできる一番の支援が何かを考えた時に、やはり音楽で貢献することが最も有意義であると結論付けた。その時に、表題の聖書の言葉を引用していたのだ。


 テレビや新聞でも最近、音楽を趣味にもつ医療従事者やボランティアが、避難所で音楽を奏でて癒しを提供しているという内容のものがよく紹介されている。避難所でスポーツ選手によるレクチャーなどもされていたりするそうだから、音楽やスポーツの効用がまさに発揮されていると言えるのかもしれない。



 ところで、表題の聖書の言葉は、池田晶子さんも繰り返し引用する言葉でもある。もちろん引用する趣旨も、もっとラディカルではあるが。


「普通に人が「死」と思っているのは、死体すなわち死んだ肉体のことであって、死体は在るが、しかし死は無いのである。肉体は死ぬが、死は無いのだったら、精神は在るのではないか、生きるのではないか。
 さて、右の「生きる」がすでに、「生活する」「生存する」の意でなくなっているのは明らかである。「死体が生存する」とは意味を成さないからである。事態のこのような奇妙さを、やはり認識した昔の人々、たとえばイエス・キリストなどは、それで、このように言ったわけだ。
「生きながら、私において死ぬ者は、永遠の生命を得るであろう」
ぐっと人生訓ふうにして、
「人はパンのみにて生くるにあらず」」(『残酷人生論』「精神と肉体という不思議」より)

原発の行末

2011-04-02 10:20:00 | 時事
メディアの地震報道の中心は常に福島県の原発に関する対処状況だが、放射線の強さが対応を遅らせているそうだ。そもそも原発について、今回のような高い津波が「想定外」だったとか、過去に同様の津波があったから想定できたはずだとかの議論が報道されているが、思い出すのは、かつて原発反対住民が「原発がそんなに安全なら、需要の最も多い都心に作ればいい」と言っていたことだ。

もし本当に原発が都心にあって、今回のような事態が発生していたら、避難民は数十万人単位では済まないだろうし、多くの企業や行政が業務停止となって、それこそ日本沈没と同じであろう。そうならないように、地方の人口の少ない地区に原発を作ったのは、今回のような事態が「想定内」であったことを意味する。最悪の事態が起こらないとは限らないし、万一その事態が発生した場合には、少数の犠牲のうえに、国民の大多数の生活を守るためということか。


それにしても、原発の燃料棒の過熱・溶融・暴走(臨界)などの説明を何度も聞いていると、まるで燃料棒が、欲棒ならぬ「欲望」の比喩に思えてきてならない。もっと快適な生活をしたい、もっと電気が欲しい、効率的に大量の電力が欲しい、とエスカレートしてたどり着いた原発は、それ自体が人間の欲望を具現化したものと言える。そして欲望は過熱し暴走する。暴走の結果が、放射能で住めなくなった土地の発生や住民の生活基盤の破壊という、取り返しのつかない結果か。本末転倒とはこのことかもしれない。




「科学技術は、生存することそれ自体が価値であり、少しでも長く生存することがよいことなのだ、という大前提を少しも疑わないことでこそ、めざましい進歩を遂げることができたのだ。そして、少しでも長く生存する限り、その生存はより快適なほうがいい、これが例の「クオリティ・オブ・ライフ」という妙な文句の真意である。この延長線上に、やがて「コンビニエンス」という発想が出てくる。便利さが価値になるほど、人間の価値は薄まる。
便利さを享受する愚昧な人々、ただ生存しているだけの空疎な人々、夢の近未来社会とは、要するにこれである。決してわざと悲観的に言っているのではない。何のために何をしているのかを内省することなく、ひたすら外界を追求してきたことの当然の帰結である。」(『死とは何か』「「コンビニエントな人生」を哲学する」より)