哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

かしこい生き方(by池田晶子)

2007-03-25 08:13:01 | 哲学
 池田晶子さんの連載を追えなくなって以降、池田晶子さんの言葉をどう取り上げていくかは試行錯誤の状態ではありますが、今回はネット上にあった下記リンク先のインタビューを取り上げてみます。


COMZINE by nttコムウェア


 このインタビューでも、池田さんの言っていることは大体いつもと同じですが、ここから、最小限重要な部分を以下に抜粋してみます。


「私は基本的に、考えたいから考えているだけですが、二次的な意味としたら、哲学は社会に対する一種の解毒作用があるのでしょう。例えば、みんなが思い込んでいて、それについて考えようとしないことに対して「本当にそうなの?」と水を向けるような作用はあります。そうやって世の中の思い込みを見抜くことができれば、人生を生きる上で強いことです。

 疑い続けて、確信を得る。そこで、初めて信じることができるわけです。哲学が宗教と異なるのは、宗教は疑う前に信じることが必要な点です。つまり哲学すること自体が、より良く生きることなんです。それは手段ではなくて、「そのもの」です。人は「知る」ことによって「かしこく」なるわけだから。せっかくなら、かしこい人間でありたいですよね。「かしこい」というのは知識の問題ではありません。勉強して、知識を詰め込むのではなくて、一つの事柄を自分で疑って、吟味して、納得して、確信を持つことが「かしこい」ということではないでしょうか? あえて言えば、人生は、かしこくなる過程。それが良く生きるということ。そう言うと、道徳的な意味合いに聞こえるけれど、そうではなくて、「自分にとって、より良く生きること」ですから。」



 池田さんが前半で言っておられるのは、哲学は、誰もが思い込んでいることを疑うことによる社会に対する解毒作用であるということ。後半で言っているのは、哲学すること自体がより良く生きることであり、かしこくなる過程である、ということでしょうか。


 この「哲学すること自体がより良く生きること」という言い方は、池田さんにしては少しリップサービス的な感じもあるような気がします。その「より良く生きること」とはどういうことか?を考えることが哲学だ、と常々池田さんは言っておられましたし、上のリンク先の他の部分でもそう言っておられます。それに、それを考えることによって、何らかの結論が得られる保証もありません。にもかかわらず、「哲学すること自体がより良く生きること」と結論付けるのはやや安易に見えます。でも「かしこい生き方」をわかりやすく明示しないと、それこそ哲学が難しいと思われるだけなので、少し受け入れやすい言葉を池田さんは選ばれたのかな、と思います。


 哲学=考えることは、なぜか?と問わずにはいられないという「業」(ごう)のようなものだというのが、池田さんらしい言い方だと思いますが、そうすると「かしこい生き方」というよりは「そうとしかできない生き方」になってしまいますからね。

池田晶子読書会

2007-03-18 05:04:05 | 哲学
 池田晶子読書会というものがあるそうで、以前からネット上のサイトをたまに拝見しています。そこに会誌『存在の謎』というのがあり、投稿されている方の文章にも興味深いものがあります。


会誌『存在の謎』抜粋



 その中で、40代女性の方の文章から、池田さんの文章を中心に少し抜粋させていただきます。



「それから、池田晶子氏の『十四歳からの哲学』を読んだ。

 人は、物質宇宙、星々が永遠に生成消滅を繰り返しているということに、意味や理由があるとはほとんど思わない。でも、それなら、地球という惑星になぜか存在し、生まれたり死んだりを繰り返している人間の人生にも、意味や目的はないはずではないだろうか。宇宙が、ただそのようにあるように、人生も、ただそのようにあるだけではないだろうか。

 不思議なことは起こるものだ。全身の力がスーッと抜けて、心の中の鉛の塊が溶けた。」




 この最後の脱力解放感は、よくわかります。

 日常生活の中で、私たち人間が行う数々の行動は意味や目的があると思っていますし、それらを集大成した人生に意味や目的がないとは普通は思っていません。ところが一方で、身の回りの数々の自然現象について意味や目的があるとは通常思っていませんし、いろんな自然現象の背後に何らかの意志があるとも普通は思っていませんよね。

 そのように普段私たちは、人間の行うことと自然現象を全く分けて考えていますが、その誤謬を池田さんは端的に明快な論理で暴きます。


 ただ、では人生に意味や目的がない、で終わりかというとそういうわけではありません。上記の池田さんの文章の続きでは、なぜそのように宇宙や人生が存在するのか、存在の謎や奇跡についての話になっていくわけです。

 自ら選んで生まれたわけではない人生は運命のように思えるし、しかし人生において何をするかは自由に選択できます。最新刊の『君自身に還れ』の中に「被投的企投」なんていう難しい言葉が出てきましたが、上の話と同じことを言っているんだなと思いました。

墓碑銘(週刊新潮の「人間自身」最終回)

2007-03-11 00:51:00 | 哲学
 池田晶子さんの週刊新潮連載の「人間自身」最終回は、「墓碑銘」という題でした。最後も、本当に池田さんらしい文章で締めくくられています。ローマで見られるという墓碑に刻まれている言葉の話のところから、少し抜粋します。



「こんな墓碑銘が刻まれているのを人は読む。「次はお前だ」。
 他人事だと思っていた死が、完全に自分のものであったことを人は嫌でも思い出すのだ。

 私は大いに笑った。
 こんな文句を自分の墓に書かせたのはどんな人物なのか。存在への畏怖に深く目覚めている人物ではないかという気がする。生きているものは必ず死ぬという当たり前の謎、謎を生者に差し出して死んだ死者は、やはり謎の中に在ることを自覚しているのである。

 それなら私はどうしよう。一生涯存在の謎を追い求め、表現しようともがいた物書きである。ならこんなのはどうだろう。「さて死んだのは誰なのか」。楽しいお墓ウォッチングで、不意打ちを喰らって考え込んでくれる人はいますかね。」



 何者でもない者として池田某という言い方をよくしておられた池田さん、最後は「さて死んだのは誰なのか」とは! この煙に巻くような、それでいて存在の原点に立ち返るような言葉が池田さんらしいですね。

 このような、不意打ちを喰らわせて考えさせようとする言い方は、池田晶子ファンにとってはおなじみですが、そうでない方にとってはちょっと受け入れにくい方もおられたのでしょう。池田晶子さんの過去の文章に対する反発もいくつかのブログで見られます。池田晶子さんも、子供向けの本は別として、わかっていない大人に対しては「考えが足りない」と突き放す言い方(まさに不意打ちを喰らわせているのですが)をするものですから、言われた方が存在の原点に立ち返って考えることをしない限り、いつまでも「わからない」ことになってしまいます。

 わかるものはわかるし、わからないものはわからない、自分さえ「善」ければそれでよい、という文章を最近はよく書かれていた池田さんですが、わかりたいと思う人にとってならば池田さんの文章は、人生=生存=存在の謎を考えるための万人向けの、誰に対しても開かれている扉ですよね。

池田晶子さん死去

2007-03-04 21:30:30 | 時事
 既に多くの皆さまにコメントいただき、ありがとうございます。


 新聞報道によりますと、池田晶子さんは2月23日午後9時30分、腎臓がんのため亡くなられたということです。享年は46歳。


 死はないのだからわからない、わからないものを恐れることはできない、と仰っていた池田さん。一方で今ここにある死とも言っておられた通り、いつ死が来ようともそれは何ら不思議ではないのですが、ソクラテス同様、亡くなられて悲しむのは周りの人ばかりです。それはそうですね、本人は亡くなって存在しないのだから、悲しむことはできません。


 ただ二代目の犬をお飼いになるとき、60歳くらいまでの体力を考えておられたので、まだまだ執筆するつもりではあったものと推測します。前から明言されていた、ヘーゲル『大論理学』の口語版は、とうとう書けなかったのでしょうか。一部でも書かれていたら是非出版してほしいものです。


 でもきっと池田さんの魂は、ケラケラと笑って我々を見ていそうな気がします。池田さんが居なくても、我々自らが、その精神性を発揮できるかな、と。