前回、マキアヴェッリの言葉に関連して、日本国憲法に触れた。その憲法について、池田晶子さんはこう書いている。
「憲法はポエジーである」(『勝っても負けても』)
「第九条が掲げる不戦の誓いも、全く現実的でない。これまたポエムの絶対条件である。かくも麗しいポエムへの信頼により、ミサイルが発射されても応戦せずに滅びるのなら、この民族の精神の気高さは、人類史を画するであろう」(『人間自身』)
初めてこれらの文章に触れたときは、さすがに池田さんも無茶なことを書くなぁと思ったが、池田さんのことである、決して言葉に裏表もない。ただ筆が走ってしまうことは時々あるが。
法律家にとってみれば、憲法は最高規範だから、日本国の全ての法律の解釈の基となる根本となるものなのだが、それを非現実的なポエジーと言われると、さすがに快く思わなさそうだ。しかし池田さんは、事実ポエジーだからポエジーだと書いたまでだろう。憲法の前文なぞ、なお一層現実を超えた理想を描いたポエジーである。今もって国際社会が平和を愛して、紛争を排除しえただろうか。
話は飛ぶが、以前に、オバマ政権が社会主義政策を基調としているとする雑誌記事の中で、日本国憲法は当時のアメリカの若い官僚が理想的な社会主義政策を日本に実験的に作ってみるために日本国憲法を作った、との話を読んだ。つまり日本国憲法は、これまで実現しえなかった理想的国家を文章にしたものであり、現実を超えたポエジーであったということを裏付けるものであろう。
一体この実験はいつまで続けられるのかとも思うが、池田さんに言わせれば、原文を作ったのが誰かは関係なく、理想を理想として掲げていけるかどうかは国民の精神的崇高性にかかっている、と言うことだろう。
「憲法はポエジーである」(『勝っても負けても』)
「第九条が掲げる不戦の誓いも、全く現実的でない。これまたポエムの絶対条件である。かくも麗しいポエムへの信頼により、ミサイルが発射されても応戦せずに滅びるのなら、この民族の精神の気高さは、人類史を画するであろう」(『人間自身』)
初めてこれらの文章に触れたときは、さすがに池田さんも無茶なことを書くなぁと思ったが、池田さんのことである、決して言葉に裏表もない。ただ筆が走ってしまうことは時々あるが。
法律家にとってみれば、憲法は最高規範だから、日本国の全ての法律の解釈の基となる根本となるものなのだが、それを非現実的なポエジーと言われると、さすがに快く思わなさそうだ。しかし池田さんは、事実ポエジーだからポエジーだと書いたまでだろう。憲法の前文なぞ、なお一層現実を超えた理想を描いたポエジーである。今もって国際社会が平和を愛して、紛争を排除しえただろうか。
話は飛ぶが、以前に、オバマ政権が社会主義政策を基調としているとする雑誌記事の中で、日本国憲法は当時のアメリカの若い官僚が理想的な社会主義政策を日本に実験的に作ってみるために日本国憲法を作った、との話を読んだ。つまり日本国憲法は、これまで実現しえなかった理想的国家を文章にしたものであり、現実を超えたポエジーであったということを裏付けるものであろう。
一体この実験はいつまで続けられるのかとも思うが、池田さんに言わせれば、原文を作ったのが誰かは関係なく、理想を理想として掲げていけるかどうかは国民の精神的崇高性にかかっている、と言うことだろう。