哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

憲法

2010-05-27 22:44:55 | 時事
 前回、マキアヴェッリの言葉に関連して、日本国憲法に触れた。その憲法について、池田晶子さんはこう書いている。


 「憲法はポエジーである」(『勝っても負けても』)

 「第九条が掲げる不戦の誓いも、全く現実的でない。これまたポエムの絶対条件である。かくも麗しいポエムへの信頼により、ミサイルが発射されても応戦せずに滅びるのなら、この民族の精神の気高さは、人類史を画するであろう」(『人間自身』)



 初めてこれらの文章に触れたときは、さすがに池田さんも無茶なことを書くなぁと思ったが、池田さんのことである、決して言葉に裏表もない。ただ筆が走ってしまうことは時々あるが。

 法律家にとってみれば、憲法は最高規範だから、日本国の全ての法律の解釈の基となる根本となるものなのだが、それを非現実的なポエジーと言われると、さすがに快く思わなさそうだ。しかし池田さんは、事実ポエジーだからポエジーだと書いたまでだろう。憲法の前文なぞ、なお一層現実を超えた理想を描いたポエジーである。今もって国際社会が平和を愛して、紛争を排除しえただろうか。


 話は飛ぶが、以前に、オバマ政権が社会主義政策を基調としているとする雑誌記事の中で、日本国憲法は当時のアメリカの若い官僚が理想的な社会主義政策を日本に実験的に作ってみるために日本国憲法を作った、との話を読んだ。つまり日本国憲法は、これまで実現しえなかった理想的国家を文章にしたものであり、現実を超えたポエジーであったということを裏付けるものであろう。

 一体この実験はいつまで続けられるのかとも思うが、池田さんに言わせれば、原文を作ったのが誰かは関係なく、理想を理想として掲げていけるかどうかは国民の精神的崇高性にかかっている、と言うことだろう。

マキアヴェッリの言葉

2010-05-26 20:42:00 | 時事
 入院中に、アプリで読める某新聞を読んでいたら、現政権への批判の中で、マキアヴェッリの言葉を紹介していた。大まかな内容としては「君主たるもの、軍事を知らなければならない」というものだったと思う。要は、普天間の問題について、鳩山首相の見識の無さを指摘したものだ。

 日本国憲法では、戦争を放棄し、戦力を不保持とし、大臣は文民ではいけないとしているから、日本の政治家に軍事に精通しろというのは酷なようにも思える。しかし、国際政治の中での日本国の存立を考える限り、軍事について不見識ではいけないのだろう。あるいはよく言われるように、田中首相の後藤田氏のような有能な参謀を持つことが必要なのだろうか。


 マキアヴェッリといえばこの人、といえる塩野七生さんの『マキアヴェッリ語録』を読んでみると、国民の上にたつ政治家には常に冷徹さが求められることがわかる。冒頭の文章では「政治とは、場合によっては人倫の道に反することもやらねばならない」という言葉を紹介し、政治と倫理を明確に切り離したところにマキアヴェッリの思想の独創性があるという。

 そんなマキアヴェッリの言葉を読んでいたら、庶民の側に視点を置いた次の言葉に接した。
 それは、「人は大局の判断を迫られた場合は誤りを犯しやすいが、個々のこととなると、意外と正確な判断を下すものである」というものだ。

 確かに小泉首相時代の郵政選挙は、郵政民営化という一点に絞ったため圧勝した。このときの郵政民営化は個々の政策のことだから、国民は正確な判断を下したのかもしれない。そして前回の衆院選挙は政権交代がテーマだった。政権交代は個々の政策ではなく大局の判断だから、国民は間違ったのか。


 マキアヴェッリにはこんな言葉もあった。あまり悲観的にはなりたくはないが。
「民衆というものはしばしば表面上の利益に幻惑されて、自分たちの破滅につながることさえ望むものだ」

健康と体

2010-05-24 10:30:30 | 哲学
 少し入院することになった。年をとると体力が落ちるし、数々の病気と縁が切れなくなる。

 池田晶子さんは30歳を過ぎて、体の不調を認識して初めて、体があることに気づいたと書いている(『41歳からの哲学』)。そして健康でありたいと思うようになったという。本人も書いているが、この点では池田晶子さんもふつうの人になったのである。

 一方で、『14歳からの哲学』では、体と心の関係について、ひとつのものの二つの側面だと書いている(「体の見方」)。この点はちょっとわかりにくい。精神性をもっとも強調していた池田さんが、体と心がひとつと考えるようになったのは、上述の経験から感じていったことなのだろうか。
 池田さんは、足を切断したからといって、自分というものが減ったりしない、とも以前に書いていた。その点は確かにそうだ。しかし、頭を切断するとそうもいかないことから、体と心がまったく別のものとは言いがたい。痛みを感じたり、あるいは人は言葉も含めて体の動作で心を表すのだから、その意味でひとつのものの二つの側面とは言える。

 最近メディアで何度も取り上げられていた徳之島出身の徳田虎雄氏は、目だけで意思表示を行っていたが、体の機能が最小限に絞られていても、やはり体と心はひとつといえるのだろう。ただ、体の中にある心は無限大に拡がっている気もする。埴谷雄高氏に池田晶子さんが、「頭蓋に無限を入れるには小さすぎるのでは?」と言った言葉を思い出す。

ゼロ年代の50冊

2010-05-15 09:32:32 | 時事
 書店のリブロで今「ゼロ年代の50冊」のフェアが開かれていて、書店員が投票した順位によれば、池田晶子さんの『14歳からの哲学』が堂々の2位にランキングされていた。大変うれしい限りだ。

 デカルト『方法序説』とかハイデガー『存在と時間』のように、哲学者の主著を1冊、池田晶子さんについて選ぶとすれば、やはり『14歳からの哲学』になるのだろう。ソクラテスシリーズや残酷系も捨てがたいが、子供向けに徹底して書かれた哲学書の存在そのものが画期的だし、内容は哲学の歴史を踏まえているのだろうが、本当に独創的だ。

 もちろん文章としては、この『14歳からの哲学』は一番池田晶子さんらしくない文章である。ここまで丁寧に書いた理由は、明らかに子供たちにこそ未来を託せると思ったからであろう。言い換えれば、頭の固い大人こそ、『14歳からの哲学』を読んで、出直すべきとなる。

 そろそろ『14歳からの哲学』も文庫化してもいいと思うが、出版社の関係から難しいのだろうか。

Hot air!

2010-05-04 20:58:58 | 時事
 昔、受験生の頃、英文解釈の答え合わせで「Hot air!」を「熱い空気!」と訳した隣人の解答を見て、そりゃないだろう!と苦笑したものの、自分でも正解はわかっておらず、結局正解は「大言壮語だ!」であったことをいまだによく覚えている。


 しばらく前から、鳩山首相の発言を聞くたびに、こんな古い体験を思い出すようになってしまった。どこかのジャーナリストが言うには、鳩山首相はできもしない事をできるかのように言ってしまう癖があるそうなのだ。


 「政治家」とは「ステイツマン」つまり、「言葉を語る人」だと池田晶子さんは言う。「民主主義という政体は、高度に言語的な自覚があるのでなければ、維持され得ないはずである」とも(『勝っても負けても』より)。
 「高度な言語的な自覚」とは、できるかどうかわからないがとりあえず言ってしまおう、ということではないだろう。もし、できないのにできると思い込んでいたら、もっと問題が大きい。

 しかし、そんな政治家を選んだのは国民であり、「人は、自分にふさわしいものしか選べない」と池田さんは言っている。問題を政治家のせいだけにはできない。