哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

漢字

2012-01-29 19:21:21 | 時事
漢字についての権威といえば、白川静氏であろう。白川氏が明らかにした漢字のもつ豊潤な世界は本当に魅力的だ。
池田晶子さんも白川静氏については触れている。



「孔子の狂気を指摘する白川氏も、したがって劣らず狂の人である。狂気の宿らない学問などクズに等しい。私はそう思っている。アカデミズムには、あまたの「学者」と呼ばれる人々が生息しているが、狂気を知る人、すなわち本物の学者など、おそらく指折り数えられるほどしかいない。
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 評価されず、黙殺され、しかし一貫して変わらなかった学究への情熱、その信念とは何か。嬉しいではないか、これこそが自身としての伝統への深い信頼なのである。知ることに命を賭けてきた精神たちの歴史としての学問、我こそがそれに参与しているという確信と自負である。」(『人間自身 考えることに終わりなく』「学者の魂」より)



最近テレビだと思うが、食は「人に良い」と書くから、体に良いものを食べましょうと、タレントか誰かが言っていた。こういう安易な漢字の分解解釈には、強く違和感を感じる。折角白川氏が明らかにしてくれた、漢字の豊潤な世界を、誤解と無知でないがしろにしてしまうからだ。以前、聴くという漢字についても、十四の心の耳と書いてあるとして、多くの人を理解する心で聞きましょうとか何とか言っていたことも取り上げたことがあるが、本当にこういった安易な分解解釈は止めてほしい。漢字について、語源的に成り立った正しい背景を勉強して発言してほしいものだ。

白川静氏の学究の集大成とされる『字通』は、一家に一冊常備するとか、あるいは小・中学校で必ず教えるくらいにすべきだと思う。

『一般意志2.0』

2012-01-23 04:32:00 | 
今話題の本である。新聞書評でもいくつか取り上げられていたが、その中にはこの本の内容をSFとして考えるとわかりやすいと書いてあったりして、否定的な見解までは見られなくても、実現性を疑問視していそうな書評が多くみられた。そのくらい発想は大胆だが、ツイッターやグーグルの活用という提言としてとらえたら、現実に利用されているIT技術の応用であり、アラブの春や、事業仕分けの時のツイッターのリアルタイムの反応を考えると、著者の言っているとおり何かできそうな気になる。それを「一般意志」と捉えたところが著者の斬新さであり、しかも新しい民主主義の形態として考えるところは大変面白い。


これについて、池田晶子さんなら何というか。あれだけネット上にあふれる言葉の愚劣性を指摘していたのだから、否定的に考えたであろうとは思われる。この本において一般意志として立ち現れるものを“欲望"として捉えるとしていたが、欲望の総体としてネット上に現れるとするモノが、一体どのように政治的に何か志向するものになるのか、果たして一般意志として統一的に捉えることができるのか、考え出すとどうしても否定的な方向になってしまう。


それでも、疑問に思うことが多かろうが、こればかりはやってみないとわからないから、まずはやってみてほしいところだ。ツイッターやグーグルなら、まさに今既にある技術の応用だから、政治へのコミットメントは別として、実験であれば可能なのではないか。確かに池田晶子さんもよく書いているように、ネットの言葉は大体においてよく考えられた言葉とは思えないから、結果として政治的に使える意思が汲み取れるのか疑問ではあるが、何か新しいことが得られるかもしれない。


そもそも、今のメディアでまさに一般意志のごとく取り上げられる、世論調査での政党支持率や政権支持率は、その調査の母数は2000人に満たず、回答数は1000人程度である。電話調査での手法と聞くが、その結果が“世論"として大きな影響をもっているとすれば、かなり少数の意見が国民の意志とされていないだろうか。老若男女がスマホを利用する今の時代なら、もう少しましなデータは簡単に取れそうな気もする。



偽名

2012-01-16 03:43:43 | 時事
オウム真理教関連で指名手配の容疑者を匿っていた女性が出頭したという。ずっと偽名で逃走していて、本名に戻りたかったとの話もあったようだ。

本名というのは戸籍上の名前であり、偽名というのはそれを偽っているから偽名なのだろうが、十数年も偽名で生活していたら慣れてしまって、もともと偽名と思っていた名前が本名に思えてしまいそうにはならなかったのだろうか。しかし、そうはならないというのが、人間の通常の性質なのだろう。戸籍上の名前というのは、もちろん自分自身で付けた名前ではなく、親や親族等が付けたものであろうし、姓などは先祖からつながるものを意味することもあろう。本名に帰りたいというのは、ある意味自分につながるルーツを知りたい、維持したいという本望が人間にはあることを示しているようである。


しかし、池田晶子さんがこの話題を取り上げたなら、別の話になりそうだ。自分は何者なのか。この世で生を受け、親に与えられた名前で生きていくのは、あくまで形而下の話であり、池田さんは「池田某」という表現をよく使っていた。この世で名前を使うのはこの世での便宜であって、形而上で考えるのは何者でもなく、あるいは全世界を包含する者なのである。

禅の世界でも、自我を捨てるということが言われるが、この世でのしがらみを捨てて考えるという意味では同じことを言っていそうだ。オウム真理教が曲がりなりにも宗教なら、一体どう教えられていたのだろうか。そういえば、この宗教団体内で宗教用の名前もあったと聞いたことがあるが、名前に縛られるのであれば、結局同じことである。偽名で逃亡することは論外であるが、本名を含めて名前にとらわれない、何者でもない自分というものを考えるのは、哲学の出発点と言っていいのかもしれない。



教祖

2012-01-06 07:16:00 | 時事
最近またオウム真理教関連の報道があった。指名手配中のメンバーが17年経って自首したそうだ。確か教祖は死刑囚のまま執行はされていないと思う。

冗談だろうが、といってもご本人は冗談ではないと書いているが、池田晶子さんも「教祖になる」と書いたことがある。


「聞くところによれば、教祖と教義と神殿があれば、それ(宗教法人)は成立するのらしい。なら神殿はここ、このおんぼろマンションの一室でよろしい。教祖は私、池田某、教祖と言えば、その団体名に象徴されている。名付けて、宗教法人「無神教」。
信じてはいけません。信じたらダメ、救われません。神は、ありません。と言って、ないのでもありません。ないということは、ありません。信じてはいけません。
冗談のように聞こえようが、これは真理である。真実の教義である。いやじっさいに、冗談ではないのである。」(『41歳からの哲学』「信じてはいけませんー宗教」より)



それにしても「無神教」という逆説的矛盾表現は、池田晶子さんらしくて面白い。神はあるのでもないのでもありません、信じてはいけません、というのが宗教なわけないであろうと思うが、一方で「考えずに信じてしまう」という行為は、宗教でなくてもカリスマ的な魅力を持つ人物に対してよく起こりうる。スポーツ選手や経営者の語録などが出版されることがよくあるが、大きな成功を成し遂げた人物の言葉を有り難がっているだけであれば、同じことであろう。
池田さんの言っているのは、自分の頭で考えよ、ということだ。これは池田晶子さんの残した言葉について、我々が対する態度としても留意したい。