哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

上野千鶴子氏

2011-06-18 01:40:40 | 知識人
 たまたまNHKをつけたら、爆笑問題の二人が上野千鶴子氏とメイド喫茶(秋葉原の?)で議論をする番組をしていた。例の、爆笑問題がいろんな分野の学者に話を聞く番組の一つかと思うが、上野氏のいろんな発言に対して、太田氏が随分暴言的反論を放っていたようだ。意外と上野氏が古臭い固定観念のもとで主張しているように見え、一方で太田氏は過激な主張を行っているようであった。例えば、

上野氏「インターネットでは共感は得られない」
太田氏「インターネットでも共感は得られる!」

上野氏「笑いにもルールはある。人との違いを笑うことはルール違反だ」
太田氏「人との違いを笑うのは笑いの基本!ルールなんかない。ただやってみた聴衆の反応で修正することはある」

 以上はうろ覚えなので、正確ではないと思うが、こんな調子であった。


 上野千鶴子氏に関して、池田晶子さんも何か書いていたと思ったが、名前を明示した文章は見つけられなかった。ただ、関連する本についての話があったので紹介しよう。確か、あるタレントが上野氏に議論の仕方(喧嘩)を学ぶというものであった。



「高名なフェミニズムの理論家に喧嘩の仕方を教わるという本が、ちょっと前に評判だったそうだ。なんでも、突込まれると、「何が悪い」と居直るのが、その極意なのだという。
「何が悪い」の、まさにその「善悪」を論じ合うのが言論活動であるということを、この人たちは知らない。互いの主張のどこが悪く、どこが善いのか、どう正しく、どう正しくないのか、論じ合うことにより最も正しいと思われる考えを全員で手に入れる。このような一連を言論活動と呼ぶのであって、自身の主張を我で張り通すことではない。それなら、自らそう言っている通り、ただの「喧嘩」であろう。」(『考える日々Ⅲ』「主張のない人は考える人だ」より)


 この「フェミニズムの理論家」が、上野千鶴子氏のことだったと思う。池田さんは、フェミニズムとかのイデオロギー的思想をとことん嫌う。一定の主張があったとしたら、それが誰にとっても正しいか否かを議論し、考えるだけなのである。

 上野氏と池田氏の議論がもし実際にあったら、どうなったであろうか。見てみたい気もするが、おそらく議論が噛み合いそうもない気がする。


塩野七生さんの「日本人へ」77

2009-09-20 20:08:08 | 知識人
今回の「日本人へ」は、八月十五日に考えたこと、であった。

塩野さんが力説していたのは、日本は今後二度と負け戦はしないようにしなければならない、ということであった。そのためにはまず、自分の国は自分で守るようにしなければならないと。イラクでわかる通り、アメリカが日本を守るために若者の命をかけてまですることは考えにくいからだ。そして、負け戦に巻き込まれないようにするため、日本は外交戦略で孤立化しないように注意していかなければならないと。そのために自国のことは自国で解決できるようにしなければ、国際政治ではまともに相手にされないという。

今回の内容は、塩野さんの書いたものと分かっていなければ、まるで右翼系新聞の社説を読んでいるような気にならないでもないが、あの塩野さんの書いていることだから、深い洞察のうえであろう。

池田さんが観念であると指摘する「国家」であるが、国際間では一定の集合体として、一人格のように振舞い、お互いの暴力を牽制するかのようだ。国際間の暴力をある程度抑えていくには、国連を国家の集合体として機能させて活用することが、自国民のみならず他国民をも決して犠牲にしない最善の方法なのだろう。

池田さんはこうも言っている。戦争の時代にあれば、戦争の時代を生きるしかないのだと。世界をみれば、未だ現代も戦争の時代といえるのかもしれない。

『なにもかも小林秀雄に教わった』(文春新書)

2009-02-01 09:43:34 | 知識人
 小林秀雄の名前を冠する本はどうしても気になる。しかも著者は、あの木田元氏だ。

 しかし、早速この本を読んでみた結果としては、少し失望した。タイトルと内容が相違しているのである。内容を総じて言えば、木田元氏の読書遍歴を綴ったものだが、著者本人もあとがきで書いている通り、なにもかも小林秀雄に教わったとばかり思っていたが実は勘違いだった、というのだ。
 一応小林秀雄の話も何度か触れられているが、タイトルに吸い寄せられて読んだ者には、タイトルの「なにもかも」が、「そうではない」というのでは、話が違う!としかいいようがない。

 所詮新書版はブログ同様のいい加減な内容でもかまわない、というのが常識なのかもしれないが、それでもこれはちょっといただけない。

『白川静』(平凡社新書)

2008-12-15 23:18:23 | 知識人
 2年前に96歳で亡くなられた有名な漢字学者の評伝であるが、著者自身(松岡正剛氏)、書くべき者が書いたという感慨と自負を表明している通り、白川静氏についての客観的評伝というよりも、白川静氏と松岡正剛氏と心身融合して書いたのではないかと思うくらい、松岡氏の思いがあふれ出ている本である。松岡流白川静伝なのである。しかし、それはそれでその思いに委ねて読んで、損はない内容だと思う。

 最初に漢字学者と書いたが、この本を読むと、決してその枠に留まらない研究者であったことがわかる。漢字の呪能の話にはじまり、漢字の語源的解明によって古代の中国や日本の民俗や世界観まで解明できるという。いわば文字以前に人が持っていた世界観を、漢字を基に知ることができるのだ。

 漢字に限らず、例えば万葉集の歌に関する解析でも「目から鱗」のような鋭さであることが触れられている。例として、万葉集の歌の「草摘み」や「標野」がかなり神聖な呪術的儀式を意味することが、わかりやすく説明されている。その他、詩経や孔子などについても白川静氏らしい解釈が挙げられている。松岡氏のこの本は白川静氏の入門書として結構お薦めである。

サルバドール・ダリ

2007-11-11 18:18:30 | 知識人
 日本人で好きな人の多い、画家のダリですが、その奇行の数々は面白いというには、ちょっと異常過ぎる感じです。しかし天才には違いありませんし、自分で「自分は天才だ」とどうどうと書くことにかけては、池田晶子さんと共通だともいえます。

 実は先週の古本市で、以前から買うかどうか迷っていた、アマンダ・リアの『ダリ 異常な愛』を買って、読んでみました。そこで読むダリの異常さは微笑ましさも感じますが、しかし結構ダリの卓越した見識には驚きます。

 アマンダが自分の出身の英国の画家ターナーを、優れた画家だと言ったところ、ダリは「英国やロシアやハンガリーに画家などいない。国にはそれぞれ特技があるんだ。画家はスペイン、イタリア、ときにフランスだ。音楽といえば、イタリアにドイツだ。他方作家に関しては、君の国はそう悪くないな。シェイクスピアがいるし、バイロン卿もいる。」と言うわけです。極端な言い分ではありますが、言いえてます。

 また、ダリ生誕100年を記念して制作されたDVD『ダリ 科学を追い求めた生涯』も見ました。ダリは相対性理論や量子力学、カタストロフィー理論とかの科学書を読み、結構理解していたというのです。それらの考え方を作品に応用したり、科学書の挿絵を書いたりしたようです。

 面白かったのは、DNAの発見についてダリが興味をもったことを、発見した科学者がインタビューに答えていたところです。その科学者はDNAの発見で生命の起源・構造を突き止めたことにより、神が存在しないことを確認したつもりでいたが、ダリはそこに神の存在を見たと言っていたというのです。

 よく池田晶子さんが書いていた、科学的な見方の限界と同じ話ですよね。科学がいくら要素還元主義的に分析しても、なぜ物質が存在するのか、その答えは一切得られません。DNAの発見に神の存在を感じたダリの直感は、池田晶子さんの思考に通じるものを感じました。

中島義道さんの池田晶子追悼文(新潮45)

2007-05-06 08:54:30 | 知識人
 久里浜@さんに教えてもらった新潮45の記事を少し紹介します。ランティエの追悼文同様に立ち読みで済ませようと思ったら、4ページもあったので、つい買ってしまいました。


 中島さんにとって、池田さんも参加されていた「大森会」での池田さんの思い出が二つ、ネガティヴなものがあるそうです。

(その1)「彼女はいつものように机にうつ伏せになって、周囲のカンカンガクガクの議論から遠く離れてひとり遊泳しているようであったが、「痛み」の議論の最中すっと頭を上げて、(池田さんが)次のように発言した。「歯が痛いとき、その痛みをじっと見ている自分がいる」 場違いな発言で、みな瞬時うろたえた。・・・(某氏)が「そりゃ、あんまり歯が痛くないからじゃないの?」とチャチャを入れると、みな爆笑し、それでその話は終わった。」

(その2)「同じような彼女の発言に対する「無視」が大森先生自身の口から発せられた。池田さんがメルロー・ポンティの言葉を引用して何かを語った。そのとたん、大森先生が「それはメルロー・ポンティの誤解です」と答え、やはりみなワッと笑って終わりとなった。」


 中島さんの文章では、その1の方は池田さんの低級なしろうと発言に対して周囲が苦慮したことが書かれ、その2では池田さんの哲学に対する態度が周囲にとってカチンと来るものがあった、と書かれています。池田さん以外の方々(中島さんも)の態度は、いかなる権威をも足蹴にする、少なくとも尊敬しないという雰囲気を共有していたが、池田さんは違っていたというのです。

 その1は議論そのものがよくわからないので何とも言えないのですが、その2については、中島さんらと池田さんとは、権威を足蹴にする態度が違っていたのか、あるいは池田さんは権威の一部を足蹴にしなかったか、というように態度が違っていたようです。


 しかし池田さんの本を読んでいると、池田さんが権威の皮を借りるような態度は全くないので、その点で中島さんらとそんなに態度が違うのか?とちょっと不思議な感じがします。池田さんこそ哲学の権威にすがることなく、「自分で考えよ」と常々書いておられるからです。

 ただ池田さんも若いころだったわけで、その後と態度がもし違っていてもおかしくはありません。そんなことは今さらどうでもよく、今は残された池田さんの文章をもとに、私たち自身が「考えて」いけばいいのですからね。

『17歳のための世界と日本の見方』

2007-04-01 08:52:50 | 知識人
 この本の題を新聞で見た時は、また池田さんの『14歳からの・・』の便乗かと思いましたが、今結構売れているそうです。

 著者の松岡正剛さんは、昔『遊』というアングラな雑誌を発行されていた方で、どうしてもアングラな博識者というイメージが私はぬぐえないのですが、今や編集工学の権威として表の活動をされています。


 この本の内容は、ある大学の講義録だそうで、大変読みやすいものです。一言で言えば、世界史と日本史のおもしろいところを編集しなおしたものといえるでしょうか。その中でも一番コアな内容は、ユダヤ教とキリスト教の話だと思います。世界のあり方に最も影響を与えた宗教だからでしょう。

 その他にも仏教や日本文化の話もあり、大変多岐にわたる内容ですが、物語として大変面白く読めます。


 池田晶子さんの本にもイエス・キリストや仏陀の言葉が時々出てきますが、その歴史的背景の整理に役立つ面白い本だと思いました。

文明は暴走する?

2007-01-25 23:23:10 | 知識人
 文明は暴走する。
 イースター島の歴史に関する番組でそのような話がありました。
 部族間の競争により、石像はどんどん大きくなり、作成に使われる木の伐採が進んで島が荒廃して食料が減っても、石像は作られ続けたそうです。一方で部族間の戦争で石像も倒されたりもしたそうです。石像を作り続けるのは全く無益で有害なのに、文明は暴走してしまって止まらなくなるということです。


 話は変わりますが、塩野七生さんと五木寛之さんの対談を3日のNHKでやっていました。
 視野の広さというか、視点の位置の高さはさすが塩野さんでした。五木さんが日本での最近の自殺者の多さを問題にしたところ、塩野さんが「平和の代償なんですよ」とあっさり言ってのけたため、五木さんは絶句していました。おそらく五木さんにとっては平和は絶対的価値なので、その代償と言われたのでは困ったのでしょう。
 さらに五木さんを絶句させた塩野さんの言葉は、パレスチナではいじめで自殺したり親や子を殺したりはないでしょ?でした。確かに身の周りで戦争が行われていれば、学校にはそもそも行けないし、家族内で殺し合いなんて有り得ないように思えます。もちろん塩野さんは、決して戦争の方がいいと言っているわけではありませんが、歴史を見れば人間の行うことは結構明らかになります。

 この番組の中で塩野さんが言うには、パックスロマーナが去った後に長くて暗い中世に入ったように、今もし欧米が力を失えば、群雄割拠の中世に戻ると思われるそうです。


 ローマ文明が暴走したといえるのかどうかは分かりませんが、欧米を中心とする今の物質文明は、まさに暴走拡大中という感じですから、暴走した結果が悲惨な結末になっても、決しておかしくないよう気はします。

米原万理さんの『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』

2006-10-20 01:00:30 | 知識人
 今年の話だと思いますが、米原万理さんが50歳台の若さで亡くなられたと聞きました。なかなか面白い本をいろいろ書いておられたので残念です。


 さて、表題の本については米原さんの主著と聞いていながら読んでおらず、遅ればせながら最近読みました(角川文庫)。


 感想を一言で言うと、米原さんも含めて国際情勢に翻弄される子供たちの様子とその後の再会が感動的である一方で、民族主義や国家、イデオロギーに振り回される姿にはやや深刻にさせられました。


 この本には題名の短編を含めて3編ありますが、最も印象深かったのは、旧ユーゴスラビアの話(「白い都のヤスミンカ」)です。


 かつてユーゴスラビアは、多民族国家(5つの民族)で、4つの言語、3つの宗教も抱えるという、統治の難しい国家として知られていました。それがチトー大統領によって一つの国家として治められていましたが、80年にチトー大統領が亡くなって以降、一つの国家としての存続が徐々に難しくなったようです。


 実は私自身もユーゴスラビアの首都ベオグラードに行ったことがあり(86年頃)、その頃は既にチトー大統領は亡くなった後だったにもかかわらず、チトー大統領の顔写真の絵葉書があちらこちらで売られていた様子を覚えています。



 「白い都のヤスミンカ」では、その後のNATO空爆等の様子も少し触れられていますが、その現場に居る人間の視点から淡々と書かれているところが、かえって問題の深刻さを考えさせられます。


 民族と国家とイデオロギーというものが、池田さんがいつも仰る通り「観念」に過ぎないことについて、一体どうすれば思い知ることができるのでしょうか。

ユリウス・カエサル

2006-06-01 05:53:00 | 知識人
塩野七生『ローマ人の物語? ユリウス・カエサル ルビコン以前』の書評:三頭政治の確立と瓦解 カウンセリングルーム:Es Discoveryウェブリブログ


 『ローマ人の物語』は文庫版で愛読中なので、まだ文庫版になっていない部分は未読ですが、上記リンク先の長文のブログでも触れられている通り、最も面白いのはユリウス・カエサルの巻ですね。塩野さんもたぶんカエサルに惚れているのでは?と勝手に思っています。


 カエサルが暗殺されたにも関わらず、その後のローマはカエサルの構想の通り帝国の道を歩み、元老院派は、死してもなお影響を及ぼすカエサルの威光に地団太を踏む状況となったそうです。それほどカエサルの考えたことは、スケールの大きい、将来まで時代を見通したものだったのですね。


 「見たいと思う現実しか見ない」ようにはならないで、現実をありのままに見据えて判断できることのできる目を養うことがいかに大切か、そしていかに難しいかを『ローマ人の物語』を読んで痛感します。