哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

日めくり池田晶子 47

2011-09-22 01:20:20 | 哲学
 原発についても、池田晶子さんが書いていた文章を見つけたので、今回取り上げてみたい。まるで、今回の震災後に書かれたとしてもおかしくない文章だが、池田晶子さんらしく、やはり脅し系である。




47 生きていることを考えずに、ただ生きようと生きてきた結果が、この科学文明の現代世界である



 「原発は絶対安全である」といったような、明らかなウソをつくのもやめることだ。原発でなくとも、人間のすることに「絶対」などということはあり得ないという事実を認識するからこそ、覚悟も据わるというものである。
 以前、東京に原発をもってこいという運動があったが、私はあれはその通りだと思う。あれは、だから原発は危険なのだという反対運動だったが、そうではなく、危険なのは当然なのだから、だからこそ東京にもってくる必要があるのである。危険な仕事は他人まかせにして、安穏と暮らしている東京の人々の首筋に、冷たい刃を突きつけるのだ。その暮らしは、これの上にあるのだぞ。覚悟はできているのだろうな。(『考える日々Ⅱ』「ただ生きようとした結果」より)

自分で才能を信じる

2011-09-16 01:01:01 | 音楽
 先日たまたまNHKBSの番組を見たのだが、シンガーソングライターの植村花菜さんがアメリカのナッシュビルを訪ね、ミュージシャンの登龍門的なライブハウスで演奏するというものだった。植村花菜さんというと、「トイレの神様」くらいしかわからないのだが、番組のクライマックスは、たった2日で英語歌詞の新曲を作り上げてライブハウスで演奏するというもので、曲の出来の良し悪しはどうであれ、どんな壁にぶち当たろうとも自分の好きな道を歩もうとする姿は、自信に満ちあふれていた。まさにチャレンジングかつクリエイティブなのである。


 音楽に限らず、自分の好きな道を歩んでいるという自信を持って活動する姿は、周りから見てもある意味頼もしい。音楽も含めた芸能界は、成功すると凄いが、転落するともっとひどい、と最近の司会者の引退に絡んでよく言われるようだが、好きなことを続ける限りにおいては成功も転落も関係ない。世間がどう評価しようと、自分の才能を信じて歩み続けるだけだろう。


 これもたまたまなのだが、先日北海道行きのフェリーに乗ったときに、ギター1本で活動している女性歌手が船上ライブを行なっていた。その歌手は、普段は金沢で看護師をしていて、しかも三児の母親だという。それで曲作りもしてCDまで制作したというのだから、そのチャレンジングでクリエイティブな姿には驚いた。


 自分の本当に好きな道を貫いて生きるのも才能であろう。池田晶子さんが好きな“天才”の範疇にはいるかどうかは別として、自分で絶対と信じる才能がある人は、天から授けられた才=天才といっていいと思う。天才は、自らそうとしかできないことを、その通りしているだけなのだから。




「古人は、天才を指して「鬼神(ダイモン)」に憑かれた人とも呼びました。ダイモン、すなわち、個人を超えた何がしか大きな力に突き動かされて事を為す人です。天才と狂気がほぼ同じと言われるのもこの理由による。社会常識など知ったことか。自分にはこうとしかすることができないのだ。こうする以外の何があるというのだ。
したがって、「それしかできない」というのが、天才の定義のひとつです。どうしてもそうとしかすることができない、それ以外のことをしてまで生きていたいとは思わない。」(『人間自身 考えることに終わりなく』「天才とはどういう人か」より)


『映画の構造分析』(文春文庫)

2011-09-10 02:39:39 | 
 新聞か何かの媒体で薦められていたので読んでみた。内田樹氏の本は、これまでもいくつか読んでおり、比較的好印象であったが、映画に関する分析というのは意外性があって面白そうに感じた。実際に読んでみて、取り上げられている映画の数がそう多いわけではないし、新しい映画もあまり取り上げられていないが、分析手法は大変面白い。

 本書を読んでみて、興味をもった部分を少し引用してみよう。


「退蔵してはならない、交換せよ。
 それが人間に告げられた人類学的な命令です。
 なぜ、そういう命令を人間が引き受けることになったのか、私たちはその太古的な起源を知りません。しかし、その命令を受け入れたものだけが「人間」として認知されるようになったということは否定のしようのない事実と思われます。」(P,137)


「人類学が教えるように、死者を安らかに眠らせるというのは生者の重大な仕事である。死者が「それを聞くと心安らぐような弔いのための物語」を語り継ぐことは、死者が蘇って、生者の世界に災禍をもたらすことを防ぐための人類学的なコストなのである。」(P,230)



 人類学について言及が少しづつあるのだが、人類学の知識は暗黙の前提とされているようで、詳しい説明があるわけではない。それにしても、退蔵せずに交換せよと引き受け続けるのが人類額的な命令で、しかも交換していく対象の正体は明かされない、とあるのは一体どういうことか。確かに全ての生物は命をつないでいくが、人類は命だけではなく、文明や文化の基礎となる英知を後世につないでいっている。その英知は、人間とは何か、宇宙は何故存在するのかといった究極の真理を探ろうとするものだが、究極の真理はついぞ明かされない。結局、無知の知をつないでいくのが人類なのか。「シーシュポスの神話」を思いおこすではないか。



日めくり池田晶子 46

2011-09-03 02:01:10 | 哲学
 事物を正しく把握する手法として、科学というのは重要であり、人類の飛躍的進歩の源泉となった。しかし科学的な考え方というものは、決して唯一最高のものではなく、科学的なものの見方に偏重した考え方は、決して正しいとはいえないことを池田晶子さんは繰り返し指摘している。



46 物質を物質たらしめているものは物質ではない。それは何か。


 水とはH2Oであると理解することによって、われわれは水を理解したことになるのだろうか。・・・なるほど、物質として対象化してみれば、水はH2Oであり、私は脳である。その限り、それらは知性による分類と分析の対象となり得る。しかし、それらを対象化するという知性の機能とは、そもそも何か。それらを物質として対象化することができるのは、対象化される以前のそれら自体がそこにあるから以外ではないはずだ。したがって、それらは物質ではない。(『ロゴスに訊け』「理性は知性を越えて」より)