哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

人生は暇つぶし(週刊新潮今週号の「人間自身」)

2006-04-29 07:00:05 | 哲学
 池田晶子さんの週刊新潮連載「人間自身」今週号は、「人生は暇つぶし」という題でした。

 要約すると、「生まれてきたことに理由はなく、生まれたからには死ぬまで生きなければならないだけ。人生において何をしなければならないこともない、つまり暇ではないか。宇宙の存在だって同じである。なぜなら、存在が存在することに理由はないからである。」



 絶対的な非-意味とも言っています。絶対的に意味がなければ、何のために生きているのでしょう。親ともなると子供のために生きるという思いができてしまいますが、ある本によると地球上の生物圏は5億年後には死滅してしまうそうです。人類が滅亡するのはもっと早いそうですから、我々は何のために子孫を残そうと頑張るのでしょう。一体何の暇つぶしをしているのでしょうか。

 しかし、意味がない、暇つぶしだからと言って、自殺してもかまわないとか、人を殺してもかまわないとか、悪いことをしてもいいとか、そういうことを言っている訳ではありません。死ぬことは生きることと同様に意味がないし、悪いことと正しいことの区別は行為以前に我々に知られている、と池田さんは何回もあちこちで書いています。

 生まれてきたからには死ぬまで生きるしかないというのは、言い換えれば「運命は選べない」ということです。「運命は選べない」という言葉は、ビクター・フランクルさんの『夜と霧』で知りました。ユダヤ人収容所生活の極限状況の中で、生き残ろうと(運命を変えようと)努力した人はことごとく失敗した一方で、運命に翻弄されながらも人間としての尊厳ある態度を失わず、他者をいつくしみ、自分にできる施しを周りの人に与え続けた人が居たそうです。つまり、「運命」は選べないが、それに対する「態度」は選べる、というのです。


 存在に理由がなく、生きることに意味がなくても、このような運命の中で我々がいかなる態度をとるのか。「考える」ことができる人間として恥ずかしくない態度をとる、ということを池田さんも言っているのでないかと思います。

塩野七生さんの「日本人へ」36

2006-04-27 04:30:32 | 時事
今月の文藝春秋(5月号)の「日本人へ・36」は「負けたくなければ・・」という題でした。

 端的に要約すると、「靖国問題など、歴史問題で被告席に座らせられている日本は、20世紀前半に日本及び日本人がやってきたことについて、公文書や新聞・ラジオ・映画等すべての史料を洗いざらい英訳付きで公表すればよい。徹底的な証拠集めと公表に徹し、日本人が誤りを犯したかどうかは判断を下さない。あくまで最終的な判決を下すのは、陪審員たちであることを忘れてはならない。」



 なるほど、歴史認識が何であれ、「史料」つまりは手の内を全てさらけ出すことにより、無用な論争を避け、批判があれば甘んじて受けて、その上で自分たちができることを一からやり直す訳ですね。国際的公正を信頼する日本国憲法にも沿ったやり方です。

 一方でこれは結構リスキーです。これまでの日本の主張が、自分たちの提示した史料によって覆される恐れもあります。ただ池田さんも言うように、国家という枠組み自体が相対的なものに過ぎないとすれば、国境問題にせよ、事実認識にせよ、国家間の問題は、所詮人間同士の決め事に過ぎません。何が「正しい」か「正義」かと自分達の立場にこだわれば、対立の激化しか生みませんから、一切の史料を公表し、他国の立場も理解しながら事に当たるのが、他国の信頼を踏まえた交渉事の基本的対応なのでしょう。

 問題は、他国も同じ態度で対応してもらえる保障がないことですが、だからと言って硬直的対応を日本も行うとすれば、やはり対立の激化になってしまいます。いかに相手国の胸襟を開かせるか、です。言うはやさしく行うのは難しい話ですが、だからこそ国家運営には外交に長けた政治家が必要なのでしょう。清き1票による政治家の選択は、国家運営にとって本当に重要です。決して選挙を人気投票にしてはいけません。

 塩野さんも、ドイツのやり方(一般大衆が悪いのではなく、ヒットラーとナチスが悪いと整理する)は見習わない方がいいとも言います。「自分自身に疑いを持たなくなったからこそ、ナチズムは生まれたというのに」と。まさに公正な選挙でヒットラーとナチスが君臨したことを言っているのだと思います。

娯楽が人生(週刊新潮今週号の「人間自身」)

2006-04-23 18:09:51 | 哲学
 池田晶子さんの週刊新潮連載「人間自身」今週号は、「娯楽が人生」という題でした。ポイントとなる文だけ抜粋します。

「外から提供される刺激のことを娯楽だと思い込んでいる現代人は、本当の娯楽を知らない。自分で楽しむということを本当は知らないのだ。だから人は病的に退屈を恐れる。強迫的に娯楽を求めるのは、退屈することが何よりも怖いからだ。
 人生に退屈を覚えるなんて、人はいつまで生きているつもりなのだろう?」



 今回の文章のきっかけは、ソフトバンクがボーダフォンを買収した際に、「インターネットと携帯の融合で質の高い娯楽を提供する」と社長が言った事を受けているそうです。

 ディズニーランドや映画とか、娯楽としての刺激や情報は、常に外から入って来るようなイメージで我々は捉えています。観光も、知らない土地を訪れるという意味で外からの刺激ですから、同様なのでしょう。

 このように外からの刺激で楽しむことしか知らないことを、池田さんは「現代人は自分で楽しむということを本当は知らない」と言います。「本質的な事柄の存在に気づくと、人は退屈しなくなる」とも。これは何を言っているのでしょうか。

 「本質的な事柄」とは、池田さんであれば「考えること」の対象となる事象全般を言うのでしょうが、さらに「考えることに限らない。自分の仕事を見出している人なら知っている。」とも言っていますから、例えば天才と言われる人や成功した経営者なども、自分の仕事を見い出し、退屈しない人として挙げることができるのでしょう。

 そしてさらに言えば、別に天才でなくても「自分の仕事」を見い出し、そのために、人生に打ち込むことができれば、そこに「退屈」はないのでしょう。

上手に死なせて(週刊新潮今週号の「人間自身」)

2006-04-15 23:09:56 | 哲学
 池田晶子さんの週刊新潮連載「人間自身」今週号は、「上手に死なせて」という題でした。ポイントとなる文だけ抜粋します。

「死それ自体は人間の意志を越えているからこそ、人は死ぬことができるのである。そうでなければ、どうして人に死が訪れることがあり得よう。」



 本文の最初の方では、末期患者の安楽死問題で医者が殺人犯扱いされることに同情しています。そのうえで、「死に方」と「死」とは違うのに、人は勘違いしやすいと。

 さて、引用した文は何を言っているのでしょうか。死に方(自殺)は選べても、死そのものは選べないというのは何となくわかります。自殺の方法は正しくても何らかの間違いで生き残ったりすることがあるように、死そのものは確かに選べません。

 では「人間の意志を越えているからこそ、人は死ぬことができる」というのはどういうことでしょうか。もし死が人間の意志を越えてなく、死を意志できるのであれば、どうなるのでしょう。意志を越えてない以上、死は意志できるし、逆に死を意志しない、つまり死なないことも意志できることとなってしまう。ということは、「意志を越えている」ことによって、意志とは無関係に自然としての死が万人に訪れる、と言うことができるわけですね。なるほど、当たり前というわけです。

養老孟司さんの『無思想の発見』

2006-04-12 00:59:15 | 知識人
 『バカの壁』も随分人を食った文章でしたが、この本も著者自身も言う通りヘソ曲がり度大の文章です。でも他の新書よりは真面目に書いてるようにも思えます。

 品格のない『国家の品格』があれだけ売れているのですから、この本ももっと売れていいと思いますが、著者本人の類書がやたらある中では、真面目な内容のこの本はとっつき難いのかも知れません。


 池田晶子さんはかねてから養老孟司さんのことを肯定的に紹介していますが、逆に養老さんが池田さんを紹介した文は見たことがありません(全ての養老さんの本を読んだわけではありませんが)。

 ただこの本を読んだ感想としては、池田さんと養老さんとは微妙に考え方は異なるのではないかと思いました。

 例えば、足を切り落としても(精神的な)「自己」が減るわけではないという話は、池田さんの文にもあります。この本ではジョン・ロックが『人間知性論』で同様のことを書いていると紹介されています。しかし養老さん曰く「じゃあ、首ならどうなんですかね」と。養老さんは、精神と身体とを分ける考え方は無茶な話だと言います。さらに「同じ自己」と言っても、人体を構成する物質は一年で9割以上入れ替わることから、むしろ「別の人」とも言いうるとのこと。そうすると「同じ」というのは「意識」のことになるが、「意識」とは脳の機能といえ、脳の機能としては意識は無意識の後追いであったり、五感による「異なる」感覚世界を「同じ」概念で捉える作用を行う。つまりは意識における個体差=個性は大きく違うとは言い得ず、「同じ自己」どころか他者との決定的区別にも必ずしもならないことになります。

 このように、養老さんにおいては脳も含めた身体に一体化した精神を出発点に、思想というものを捉えていくようです。池田さんにおいては、身体性よりも精神性の比重がかなり多いように思いますので、微妙にスタンスが違うような印象です。


 そして本題の「無思想」ですが、この辺から日本人論になります。キーワードとしては「思想は現実に介入しない」というもので、例えばキリスト教を基盤にした思想=原理原則は現実に介入して人の生存に影響するが、無思想の世界である日本ではそのような現実に介入する思想はなかったと言います。
 養老さんは「無思想という思想」が日本にはある、という言い方をされますが、詳細は是非この本を読んでください。

塩野七生さんの「日本人へ」35

2006-04-09 07:02:06 | 時事
 先月の出版ではありますが、今月の文藝春秋(4月号)の「日本人へ・35」は「乱世を生きのびるには・・」という題でした。

 端的に要約すると、「今年は面白くない年になりそうである。イランの核問題、パレスチナ問題、イスラム風刺問題、中国の問題・・。大国ではないゆえ問題を討議するグループからはじき出されている日本は、アイデアを出しても他国が乗ってこない状況がこれから多くあるだろう。というわけで提案なのだが、今は日本人だけで解決できる問題にエネルギーを集中してはどうか。それは経済力のさらなる向上、以外にはない。」



 世界と歴史を俯瞰して発言できる塩野七生さんならではの提案ですから、重みがあります。限られた資源の活用、輸出産業の推進、科学技術力の向上、日本文化の情報発信・・・等、できることからやっていってはどうかということですね。

 政治や外交が下手な日本人でも、経済の再発展に注力することならまだできそうな気がします。そのためには国内の問題はしっかり片付けなければなりません。塩野さんも書いている通り、財政再建については早急に的確な処理をしなくては日本の将来はないのでしょうし、国際的役割については決して背伸びをせず、後藤田正晴さんが仰っておられた通り、平和憲法に沿って行動をすべきなのでしょう。

あぶない勘違い(週刊新潮今週号の「人間自身」)

2006-04-08 06:27:24 | 哲学
 池田晶子さんの週刊新潮連載「人間自身」今週号は、「あぶない勘違い」という題でした。やっと『国家の品格』を読んだそうです。主なところを要約しつつ抜粋します。

「人を殺してはいけない論理的な理由がないのと同様、私が日本という国に生まれたことにも論理的な理由はない。つまり日本人に生まれたことは偶然である。日本に素晴らしいものがいくらあっても、べつに私が偉いわけではない。人はここを勘違いしやすい。
 国家や民族は、最もわかりやすいアイデンティティである。しかし、そもそも「国」というもの自体が、観念としてしか存在しないのである。この種の相対性を見抜き、自覚してゆくのでなければ、著者の目標とする「二度と大戦争を起こさない」を達成するのは難しいのではないか。」



 さすが、池田さんはラディカルについてきます。「国」というもの自体が観念でしかない、という話は池田さんの文にはさんざん出てきますね。国家観念が相対的なものであれば、一体何のために人は戦争するのかと。

 著者の目標である「二度と大戦争を起こさない」は、20世紀という「戦争の世紀」の記憶がまだ生々しい人類の最大の目標であるはずですが、現実にはイラク戦争をはじめ、大戦争に近い事態は繰り返されています。


 歴史関連の書物を読んでつくづく思うのは、おそらく冷徹に人類の歴史を考えれば、将来においても決して戦争はなくならないだろう、と断言できるのではないか、ということです。塩野七生さんの『ローマ人の物語』でも、必要悪としての戦争、という表現が出てきます。近隣諸国とのトラブルを解消するために最小限の戦争行為はやむをえない、しかし双方の被害を少なくするため極力最小限に留めなくてはならない、というのです。

 確かに為政者からすれば、この「必要悪としての戦争」という観点は、事前準備を必要とする、避けることのできない政策なのかもしれません。だからこそ「大戦争」にはならないように、外交面も含めてさらに周到な準備が必要なのでしょう。


 国家や民族や宗教という観念の相対化という観念でさえ、すべての人間と共有化できるとは限らず、観念の共有化ができない人間との共存においては、寛容な精神で包み込むことを目指す一方で、強制力の行使の可能性を保持しておくことも必要になる、というのが平和維持を目的とする為政者の立場でしょう。

 そう考えると『国家の品格』の著者の言う「武士道」の精神も正当ではないか、と思ってしまいますが、しかしやはり池田さんの言う通り、国家観念が相対的であるという考えは、すべての戦争が無意味であるという点において何の曇りもなく、その意味で「茶の心」(あるいは「禅の心」)の方が、あらゆる人間を平等に扱い、武器も拒否する点で優れています。

 そして国家観念が相対的であるという考えを理解することが、市民として「正しく生きる」あるいは「善く生きる」ことであることに間違いはないと言えましょう。

私は年齢である(週刊新潮今週号の「人間自身」)

2006-04-01 18:37:59 | 哲学
 池田晶子さんの週刊新潮連載「人間自身」今週号は、「私は年齢である」という題でした。主なところを要約しつつ抜粋します。

「人はたいてい、自分の年齢は自分にふさわしくないと感じている。自分が自分であるという自意識の側は動かないのに、年齢ばかり先に行くからだ。超時間的な意識は変わらないのに、時間的な肉体は変わる。
 一度、自分はこの年齢にふさわしい、この老いてゆく肉体そのものである、と受け入れてみてはどうか。体もふさわしく心も老いるから、老いるということは面白いのである。老いるという初めての経験にワクワクする。人生においては、あらゆることが初めての経験であるということに、今さらながら驚く。」



 前回では、「大人になれない」団塊の世代の話でしたが、今回は「老いる」ことを受け入れられない(受け入れようとしない)人々への提言のようです。老いることへの肯定的態度は、アンチエイジングの愚かさの指摘と同じようなスタンスですね。

 池田さんの文章には、肉体と精神を切り離した言い方が多いように思っていたので、年齢に同化しようとの提言には多少驚きしました。しかし、肉体も精神も若いままでいたいというような思慮の無い考えは、いつもばっさり切り捨てていますから、分別のある精神を持つためには年齢に同化したらよい、というのは、ある種、形式から実質を導くものかもしれません。年齢にふさわしい精神を持て、と。