哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

『小林秀雄の哲学』(朝日新書)

2013-10-20 16:54:54 | 
 表題の本はたまたま本屋で見つけたのだが、単に小林秀雄氏に関する本なら世間に大量にあるので素通りするところ、引用文献のページを見たら、何と冒頭に池田晶子さんの著書があったので、思わず購読してしまった。

 小林秀雄に関する本の多くは池田晶子さんの言説は無視するようであるが、この本では冒頭にある序章の、最初に引用した文献の著者が池田晶子さんになっている。そこでは、夭折した作家として紹介されており、小林秀雄氏への恋慕の情を表明した、手紙のようなエッセイが引用されている。さらに池田さんについては、雑誌モデルで生計を立てながら哲学エッセイという執筆分野を確立した、とも説明されていた。

 この雑誌モデルの話は、池田さん自身の著作には出てこないが、かつて誰かの文章でも書いてあったように思うので、きっと業界では有名な話なのであろう。ただ、池田さん本人はこういう紹介は嫌うであろうことは間違いない。容姿についてどうであろうと、哲学とは何の関係もないことだからである。


 さて、表題の本の内容そのものは、小林秀雄氏の人生に沿って、著者が選んだ節目の文章を各章冒頭に置いており、一通り読むことによって、小林秀雄氏の人生の紆余曲折も含めて辿れるようになっているので、なかなか面白く読めた。著者は本書の目的として、小林秀雄氏の〈逆説・二分法・飛躍・反権威主義・楽観主義〉というスタイルの魅力と危険性を掘り下げるとし、後半ではベルグソンとも関連して、分析より直観を重視する哲学を小林氏と重ねる。

 この小林氏のスタイルは、池田晶子さんも同じであるのは言うまでもない。だからこそ池田さんは小林氏の文書とコラボした本(『新・考えるヒント』)まで出せたのだ。


 ところで、表題の本の中で少し引っかかった箇所がある。この著者が不思議に思うこととして、次のように書いている。

「なぜ小林ほど知的に優れていて、感性の豊かな天才的人物が、・・・・「オカルト」や「疑似科学」をナイーブに受け入れてしまうのか」(P.229)

 これについては、むしろ池田晶子さんの著作を読んでもらいたいものだ。そもそも科学というものが、一つのものの見方でしかないことを繰り返し書いているではないか。その点でも、池田さんも小林氏も共通しているように思えるのだ。


この人に訊け!(週刊ポスト2005年5月20日)

2013-10-06 15:52:40 | 
今回の書評対象は『私にとってオウムとは何だったのか』という、オウム真理教事件で死刑判決を受けた元教団幹部の手記だそうである。池田晶子さんは、オウム真理教に関する疑問を繰り返し書いているが、その謂いは宗教全般に対する疑問でもある。もちろん宗教全般がオウムのようになるわけではないが、宗教において「信じる」という行為に、常に危ういものを感じてしまう。


「一般的には、宗教とは、人間心理にとって最大のトリックである。神もしくは絶対者を「信じる」という心の働きにおいて、「疑う」すなわち「考える」という理性の働き、停止されることになるからである。考えることをやめ、信じるのみになった人の心は、どんな奇怪な観念でも受け入れることが可能になる。どうしてそれが可能なのかが、心の不思議でもあるのだが、おそらくその根底にあるのは、保身の裏返しとしての恐怖であろう。死もしくは死後への恐怖のゆえに天国を信じる、あるいは自ら判断することへの恐怖のゆえに、絶対者の言を信じる。しかし、人は、そのようにして保身されるべき自分の何であるか、あるいは死というものの何であるかを、そもそも知っているものだろうか。」(掲題書評より)

「理性により考えて、死は存在しないと知られたなら、「死後」などすべて物語だと、必ず見抜けるはずなのである。同時に、では今ここに存在している「自分」とは誰か、その謎に深く驚きこそすれ、絶対者の言を信じなければならない理由など、何もなくなるはずなのである。」(同上)


著者の早川は、自分を救済者であると特別視してエゴを喜ばせたり、グルにすべてを明け渡すという行為の中に“自分の認めた権威”というエゴがあったことを認め、本当にエゴを滅するためには、その“自分の認めた権威”すらも滅しなければいけなかった、と書いているそうである。それを評して池田さんは、大罪を犯してのちの本物の宗教心の目ざめであり、人間にとって「信じる」ということは、かくも難しいことなのだ、と結んでいる。


最後に出てきた「本物の宗教心」とは何なのか。「信じる」ことによって、「考える」ということが停止されてはいけなかったはずである。しかし根源まで「考える」ことによって、考えてもわからないものが残ったときに、信じるしかないものがあるということだろうか。「考える」ことが不十分なままに、「信じる」ということがあってはいけないことは明らかなのだろう。