池田晶子さんの週刊新潮連載「人間自身」今週号は、「死に方四つ」という題でした。主なところを要約しつつ抜粋します。
「人間の死に方は四つしかない。自殺か他殺か、病死か事故死である。老衰は病死に含む。死に方が四つしかないと気がつくと、腹が据わった感じにならないか。必ず四つのどれかで死ぬとわかっていると納得ができる。諦めもつく。
「死に方」は四つだが、「死」そのものはひとつである。すなわち、生きている者は必ず死ぬ、以上終わり。「死に方」なんて成り行きでしかない。自殺以外は自分の意思で選べない。死ぬという最重要事が自分の意思ではないのなら、人生を生きること自体、どうして自分の意思であろうか。」
生きることも死ぬことも、それ自体は自分の意思ではない、ということを再発見すべきことが今回の文の主題でしょうか。かといって、もし、人生は神の意思による、なんて飛躍して納得し、それ以上考えないとすれば、そういう姿勢は正しいのかどうか疑問です。誰かの用意した、神の教えなるものに人生を委ねることが、果たしてどうなのか。問題は生死の現象ではなく、どう生きるか、です。
人智を超えたものがありうることは決して否定しないものの、「生きていくこと」=「生き方」を考えることは、決して結論が用意されているとは限らないかも知れませんが、各自が考えるべき事柄なのでしょう。
「人間の死に方は四つしかない。自殺か他殺か、病死か事故死である。老衰は病死に含む。死に方が四つしかないと気がつくと、腹が据わった感じにならないか。必ず四つのどれかで死ぬとわかっていると納得ができる。諦めもつく。
「死に方」は四つだが、「死」そのものはひとつである。すなわち、生きている者は必ず死ぬ、以上終わり。「死に方」なんて成り行きでしかない。自殺以外は自分の意思で選べない。死ぬという最重要事が自分の意思ではないのなら、人生を生きること自体、どうして自分の意思であろうか。」
生きることも死ぬことも、それ自体は自分の意思ではない、ということを再発見すべきことが今回の文の主題でしょうか。かといって、もし、人生は神の意思による、なんて飛躍して納得し、それ以上考えないとすれば、そういう姿勢は正しいのかどうか疑問です。誰かの用意した、神の教えなるものに人生を委ねることが、果たしてどうなのか。問題は生死の現象ではなく、どう生きるか、です。
人智を超えたものがありうることは決して否定しないものの、「生きていくこと」=「生き方」を考えることは、決して結論が用意されているとは限らないかも知れませんが、各自が考えるべき事柄なのでしょう。