哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

死に方四つ(週刊新潮今週号の「人間自身」)

2006-01-28 08:28:34 | 哲学
 池田晶子さんの週刊新潮連載「人間自身」今週号は、「死に方四つ」という題でした。主なところを要約しつつ抜粋します。

「人間の死に方は四つしかない。自殺か他殺か、病死か事故死である。老衰は病死に含む。死に方が四つしかないと気がつくと、腹が据わった感じにならないか。必ず四つのどれかで死ぬとわかっていると納得ができる。諦めもつく。
 「死に方」は四つだが、「死」そのものはひとつである。すなわち、生きている者は必ず死ぬ、以上終わり。「死に方」なんて成り行きでしかない。自殺以外は自分の意思で選べない。死ぬという最重要事が自分の意思ではないのなら、人生を生きること自体、どうして自分の意思であろうか。」


 生きることも死ぬことも、それ自体は自分の意思ではない、ということを再発見すべきことが今回の文の主題でしょうか。かといって、もし、人生は神の意思による、なんて飛躍して納得し、それ以上考えないとすれば、そういう姿勢は正しいのかどうか疑問です。誰かの用意した、神の教えなるものに人生を委ねることが、果たしてどうなのか。問題は生死の現象ではなく、どう生きるか、です。

 人智を超えたものがありうることは決して否定しないものの、「生きていくこと」=「生き方」を考えることは、決して結論が用意されているとは限らないかも知れませんが、各自が考えるべき事柄なのでしょう。

『西洋音楽史』(中公新書)

2006-01-26 06:09:20 | 音楽
Excite エキサイト: 西洋音楽史

 今クラシック音楽がブームなのだそうですが、サンプラーみたいなベスト盤がよく売れている程度では、にわかに信じがたい気分です。
 しかし、本当にクラシック音楽が好きな方には表題の本は大変お薦めです。

 歴史的背景や社会情勢を踏まえて音楽の歴史を語る様は、この本の小ささと異なり、かなりスケールの大きい展開です。中世音楽の話から始まりますが、歴史書のような実証的記述は、非常に興味深く読めます。しかも最後のところでは、ジャズやポピュラー音楽も西洋芸術音楽史の流れの中に位置づけられています。

 いろんな作曲家の名前も出てきますが、それを歴史的に位置付けていく話も大変面白く読めます。例えば、バッハは時代を超えた偉大さはあるものの、多分にドイツナショナリズム高揚による再評価の要素があったり、ベートーヴェンの労働賛美的な集団熱狂(第九のフィナーレ)など、歴史的文脈によって作曲家の個性と音楽の時代的背景が整合していきます。

 この本に触れられている音楽は、歴史の順番に実際に聴いてみたくなります。もしかしたら、人間精神の歴史的運動を実感できるかも知れません。

モーツァルト・イヤーだそうで

2006-01-23 23:59:59 | 音楽
 先日NHKの「クローズアップ現代」(息の長い番組ですね!)で、今年モーツァルト生誕250年であることから、モーツァルト特集をしていました。

 その番組によると、今クラシック音楽がブームなのだそうです。それは本当なんでしょうか。私のまわりにも、若干少数ですが、オペラを見てみたいという人は出てきたものの、ニンテンドーDSのような熱狂はありません(当たり前?)。

 そのNHK番組での科学的実験なるものに疑問を一つ申し上げます。
 ベートーヴェンよりもモーツァルトの方が脳にやさしい快感を与えるということを脳波で確認する実験(池田晶子さんなら「何で“脳”なんだ?」とまた言われそうですが)で、比較した音楽がなんと、交響曲第5番「運命」と「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」なのです。これは科学以前におかしいですよね。百歩譲っても長調か短調かぐらいは同じ種類の音楽を比較しないと客観的比較にならないではないですか。
 当然この実験結果では、ベートーヴェンよりモーツァルトの方が脳にやさしいというのですが、運命と比較するなら交響曲25番かレクイエムにすべきでしょう。まあ、それでも微妙にモーツァルトの方がやさしく感じるのかも知れませんが。

 そうはいっても、かつて自民党がテレビ報道の公平さに文句をつけたように、ベートーヴェンさんにも文句を言わせてあげたい気分でした。

寒い!(週刊新潮今週号の「人間自身」)

2006-01-21 06:09:18 | 哲学
 池田晶子さんの週刊新潮連載「人間自身」今週号は、「寒い!」という題でした。主なところを要約しつつ抜粋します。

「たとえば時候の挨拶「寒さ厳しい折」、そういう言葉を書くことができるのは、ひとつの深い安心である。わかりきったことに、人は安心を覚える。
 人生の一回性、喜びも悲しみも一回きりの経験である。そういう経験の総体としての人生が、一回きりで過ぎてゆき、二度と戻らない。だからこそ人は、過ぎてゆかないもの、あるいは過ぎても巡るものを見出して嬉しい。「今年も花が咲きましたね」と言える幸せ。
 ゆえに季節とは、人生の句読点のようなものだろう。一回性における永遠性、永遠の循環性を見出す時、人は、自分が自分の人生を生きている奇跡をも知りえるはずである。ああ、私の人生はこのようでしかあり得なかった、と。永遠的偶然、偶然的現在。だから一期一会なのである。」


 一期一会という言葉は、茶道でよく使われます。このような禅的言葉と、池田さんの言葉には親和性があります。
 時候の挨拶一つに、人間存在の一回性・偶然性、翻って永遠性と循環性がこめられるというのは、何か無常観を思いながら、言葉の永遠性を思うことのように感じます。そういえば小林秀雄さんの「無常ということ」も、そんな感じの文章でしたね。

『下流社会』

2006-01-16 23:31:05 | 
 新書のベストセラーになっている『下流社会』ですが、みんなが読んでいると気になるのが人の常。しかし池田さんも言う通り、みんなそうしているからと言ってもそれが善いこととはかぎらず、善い悪いは自ら判断できなくてはなりません。で、読んでみたのですが・・。

 そもそも、こんなデータ羅列主体の読みにくい本をみんな最後まで読んだのでしょうか。しかも著者自身が何度も表明している通り、データ数が必ずしも十分多くない点もあって、データ上有意な差異がないことでも、類書を使っての階層認識の解釈を行っています。

 つまりデータを使った客観的分析のようでありながら、主観的要素の方が強く、実質は著者自身の見解あるいは類書の説の確認の要素が強く感じられます。また、挿入されたインタビュー風記事は面白いとはいえますが、週刊誌によくある覗き見趣味的のようでもあります。

 結論としては、あまりお薦めできない本ですね。しいていえば、最後の「文献ガイド」は参考になるかも。

悪いものは悪い(週刊新潮今週号の「人間自身」)

2006-01-14 03:10:14 | 哲学
 池田晶子さんの週刊新潮連載「人間自身」今週号は、「悪いものは悪い」という題で、例の耐震偽装問題に関してでした。主なところを要約しつつ抜粋します。

「あの建築士を非難できる人が、現代社会にどれほどいるだろう。「生活できない」「生き残れない」などの言い訳にならない言い訳で、粗悪品を売ったりズルをしたり、普通に行われている。金もうけのためなら何をしてもよいというその心性は現代社会に広く見られる。そういう人々に責任を追及すれば、市場原理に責任を転嫁する。みんながしていることじゃないかと。
 みんなが悪いことをしているからといって、自分が悪いことをしていい理由にならないし、みんながしているからといって悪いことが善いことになる道理もない。しかも人は、悪いことは倣っても、善いことは倣わない。やはり人は自分の見たいものしか見ないのである。
 性善説とは、自分にとって本当に善いことを知っていれば、悪いことなどするはずがないという当たり前を言ったものだ。ただ、それに気づくのが容易でないだけだ。」


 みんながやっているということで責任転嫁をする体質は、日本だけでは決してありません。以前、NHK特集でウォータービジネスの話が取り上げられ、某東アジアの国で水道水をミネラルウォーターと偽って売られている実態が放映されていました。その業者もやはり、みんなやっているじゃないかと言ってました。とはいっても、全世界でみんなやっているではないかと開き直る話ではありませんが。

 ところで、市場原理への責任転嫁というのは、安いものに需要があるから粗悪品でも安ければいい、という考えかと思いますが、本当は粗悪品が混入しない様な公正なルールがあってこその市場競争です。その公正さは本当は法律(独占禁止法等)で担保されるはずですが、結局公正=善いことの基準を“みんな”に置くか“自ら”に置くかが問われているのでしょう。

 蛇足ですが、「自分の見たいものしか見ない」というフレーズ、カエサルの言葉として塩野七生さんの『ローマ人の物語』に幾度となく出てくるフレーズです。こんなところで池田さんが書かれるとはちょっと驚きました。

『イチロー思考』

2006-01-12 06:39:04 | 
 イチローさんに関する本の出版も多いですね。そして、イチローさんが天才とされることも共通しています。
 池田晶子さんもイチローさんについて書いています。
「彼自身、自身の精神性を深く信じていて、迷いを微塵も所有していない。・・己れを超えた或る存在の自覚、天才は才能によって天と直結している。そう自覚するからこそさらなる精進という「道」が可能になる。・・野球は見る気はやっぱりないけど、イチローの野球道だけなら見てもいいかな。」(『勝っても負けても 41歳からの哲学』P.141~143「天才が好き」より抜粋)

 ところで、話題の表題本を読みましたので、イチローさんの言葉をいくつか紹介します。

「素晴らしい評価でも最悪の評価でも、評価は周囲がするものであって、自分自身が出した結果でも、示した方針でもない。自分の姿だけは絶対に見失ってはいけないと思っているのです。」
 この言葉に限らず、イチローさんの言葉には、他人の評価には左右されず、自分の目標をしっかり持ち、あくまで自分のスタイルを貫く姿勢がはっきりしています。

「バッターは四球を狙って打席に立つべきじゃないですよ。打席に立つからには打たないと。」
 この言葉を評して著者の言葉は、「アメリカ人は失敗をチャレンジと訳す。失敗も積極的な行動があってのことだ。動かないことが最低の行為とされる。」そうです。

「皆さんは打率3割8分のことを評価しますが、僕の心の中にはまだ6割以上の打ち損じがあるという思いがあります。」
 成功したことよりも失敗から多くを学ぶ姿勢は、繰り返しこの本で語られています。

「やれることはすべてやりました。どんなときも手を抜いたことはなかった」
 コツコツと日々できることを重ねる、あるいはしなくてはならないことはどんな小さなことでも絶対におろそかにしない、そんな強い精神力がはっきり見受けられます。

 一つ一つの言葉は当たり前のようでも、融合すると全体で一人の天才が出来上がるわけですね。

塩野七生さんの「日本人へ」33

2006-01-10 03:21:37 | 時事
 今月の文藝春秋(2月号)の「日本人へ・33」は「自尊心と職業の関係」という題でした。端的に要約してみます。

「紀元前2世紀のローマに起こった失業問題に対し、当時のリーダー達は経済援助だけで解決しようとはしなかった。それは、失業とは生活の手段を奪われるだけなく、自尊心を育む手段さえも奪うからだ。したがって、ローマ軍団を徴兵制から志願制に移行したり、カエサルが農地法改正により中小企業育成策のようなことをしたりした。
 今の日本の失業対策でいえば、フリーターを非正規の労働者ではなく、正社員と同等水準の労働者として公認してはどうか。フリーターの社会的経済的権利を確立し、義務も明確にすれば、自尊心も確立する。そのうえ両者間の流動性も保証されれば理想的である。労働市場の流動化と活性化は、必ず経済に良い影響をもたらすはずだ。」


 さすが塩野さんですね。国際的観点と歴史的観点の両方を兼ね備えてこその卓見です。もしかしたら、経済政策は経済学者ではなく、歴史物の作家が担う方がいいのかも知れません。

『ジャンヌ・ダルク』(岩波新書)

2006-01-08 19:21:23 | 
 いきなり話が脱線しますが、昨年のNHK大河ドラマ「義経」はかかさず見ました。その前の「新撰組」や「武蔵」はつまらなくて途中から見なくなりましたが、さすが「義経」は、もともとのストーリーがよくできているのか、飽きさせない展開でした。

 実はこの岩波新書の『ジャンヌ・ダルク』の冒頭は、義経の話から始まります。確かに義経のストーリーとジャンヌ・ダルクのストーリーは結構似ています。平家を打ち倒した輝かしい成果は、オルレアン解放とシャルル国王戴冠までに類似しますし、兄頼朝に追われ平泉で自害する悲劇的結末は、シャルル国王に見放されイギリス軍に捕まって火刑にされる悲劇的結末に類似します。

 但し大きく異なる点は、義経は史実に関する文書資料はそう多く残っていないのに対し、ジャンヌ・ダルクには処刑裁判とその後の復権裁判の膨大な記録が残っていて、史実や人物像がかなり解明できることだそうです。この新書版は、その記録をひも解くことによりジャンヌ・ダルクの実像やこれまでの論争などを分析的に取り上げています。

 ジャンヌ・ダルクはフランスの愛国を鼓舞するように取り上げられることも多いそうですが、何と言ってもその魅力は神のお告げとしてオルレアン解放とシャルル国王戴冠を宣言し、その通り実行し成功させた、奇跡としか言いようのない行動力です。ジャンヌの聞いた神のお告げは幻覚だと説明しようとする知識人もあったりしたこともこの本に出てきますが、池田晶子さん的に言えば、人智で説明できないことがあって何がおかしい、ということでしょう。

『中国人の愛国心』(PHP新書)

2006-01-06 03:44:46 | 時事
 今話題の『国家の品格』や『下流社会』よりも、心ある人は絶対にこの本を読むべきだと思いました。日韓や日中の関係がギクシャクしているとの報道が最近多いですが、近隣国への理解を進めずに一方的な主張の応酬では進展するわけがありません。

 政治やマスメディアの論調から中国を判断してはならず、文化や民衆の観点から中国を理解していく必要がある、というのが端的なこの本の主張です。さらに、反日デモがあったからといって過剰反応するのではなく、むしろ親日派を増やしていく努力をすべきで、下手な対応をして親日派を反日派に変えてしまったのでは意味がないと書いています。全くその通りですね。

 中国を理解するキーワードとしては、中華思想、儒教、歴史の重視、中国魂などが挙げられますが、詳しくは是非この本を読んでいただきたいと思います。

 一つ面白かったのは、日本人はよく「国際的に見れば」という言い方をよくするが、中国人は「歴史的に見れば」という言い方をよくするそうです。現在は日本人が「国際的」と言った場合は「アメリカ的」という意味になりがちですが、古来日本は他国文化を積極的に受容消化してきた歴史から、そのような考え方が根付いているのかもしれません。一方中華思想を持つ中国人は、自分達の歴史を模範に常に考えるそうです。このことを知っただけでも、中国人の発言が理解しやすくなってきませんか。