哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

ヘッセ『シッダールタ』(新潮文庫)

2006-08-31 04:10:00 | 
 美人ギタリストの村治佳織さんが薦めていた本で、「悟り」に関するヘッセの小説というので、気になって読んでみました。

 小説でありながら、主人公が最後に悟ったものというのは、結構池田さんの言葉と共通するように思いました。少し要約的に紹介します。



「高名な師に従い、真理をさがし求めることが真理に近づく方法であるかのように思えるが、実はさがし求めることによって、目標以外に何も見えていない、何ものも見出すことができない。
 見出すとは、自由であること、心を開いていること、目標を持たぬことである。


 未来はすでにそこにある。世界は瞬間瞬間に完全なのだ。いっさいの存在した生命、存在する生命、存在するであろう生命を同時的に見る可能性がある。そこではすべてが良く、完全で、梵である。存在するものは、私にはよいと見える。死は生と、罪は聖と、賢は愚と見える。」



 よく池田さんは「自分探し」を批判されますが、これは探す前に「自分」があることを前提としているからでした。どこかに自分があるとして、さがし求めることによって、目の前のものを見失っていることでは、ヘッセの文に同じかもしれません。


 そして、池田さんの言葉を追っている私たちにとっても、何かをさがし求めようとすることによって、かえって見失っていることもあるかもしれません。むしろ池田さんの考える態度のように、心を自由にして、考えていきたいものです。

大御心と私たち(週刊新潮今週号の「人間自身」)

2006-08-27 03:43:15 | 哲学
 池田晶子さんの週刊新潮連載「人間自身」今週号は、「大御心と私たち」という題でした。最初の一文にまずびっくりします。


「「これが私の心だ」という昭和天皇の発言に、私は感動した。」


 デリケートな話題に物怖じせずに斬り込む態度は、切味鋭い言葉の刀を持つ池田さんならではです。当然、池田さんは一切の意見を持ってないはずですし、上の後の文章でも、そもそもこの言葉の真実性も問題にしていません。しかもさらにこんな文章もあります。


「その方の言葉は神の言葉なのである。」


 池田さんはもちろん、神の言葉だからどうだとか言っているのではなく、単に言葉のもつ強い力というものに感心せざるを得ないことを表現しています。だから「これはまさしく詩ではないか」とまで書いておられます。

 そしてさらにまたちょっと驚く文章を書いておられます。


「意味不明の条文から成るあの憲法は、ポエムのようなものである。」


 憲法学者が聞いたら怒りそうですが、池田さんには何らの意図・意見はありません。「意味はよくわからないが、崇高でありがたい」のが、ポエムなのだそうです。国家の基本法がポエムでいいのかどうかは、そもそも問題ではありません。

 今回は、最後の方に最も池田さんらしい文があります。


「言葉のうえの議論をやめ、現実に目覚めよなどと、野暮な人間は口走る。逆である。言葉を愛することのできない人間に、現実という意味はわからない。すべての議論が言葉により為されているという現実について、考えたことがありますか。」


 何となくこの雑誌の後ろの方で過激な発言をされている連載執筆者のことを指摘しているように見えるのは、私のうがった見方でしょう。

 池田さんが常々書いているように「言葉により喧嘩(戦争)が起こり、言葉により勇気づけられる」、まさに毎日の私たちの生活に起きているその通りのことを、「現実」として池田さんは表現しているだけです。

サン=テグジュペリ『人間の土地』(新潮文庫)

2006-08-21 02:51:50 | 
 以前に新聞社の企画で池田さんが学校で教えるというものがありました。教えた内容は別として、紙面で池田さんが推薦していた本が表題の本でしたので読んでみました。

 堀口大學さんという詩人の方の訳で昭和30年に出版されたものですが、詩的なせいか、もとの文章のせいか、やや文章の流れに唐突感が多く有りますので、あまり読みやすくありませんでした。

 中盤での砂漠での放浪の部分の文章が長いのですが、作者の言いたいことは最後の「人間」の章に集約されているように思います。



「戦争を拒まない一人に、戦争の災害を思い知らせたかったら、彼を野蛮人扱いしてはいけない。彼を批判するに先立って、まず彼を理解しようと試みるべきだ。」

「なぜ憎みあうのか? ぼくらは同じ地球によって運ばれる連帯責任者だ、同じ船の乗組員だ。新しい総合を生み出すために、各種の文化が対立するのはいいことかもしれないが、これがおたがいに憎みあうにいたっては言語道断だ。」


 当時の飛行機乗りは、今で言う宇宙飛行士のような、高次の視点を持てたのかも知れません。
 そしてもっとも最後に、集約された一文が置かれています。


「精神の風が、粘土の上を吹いてこそ、はじめて人間は創られる。」


 これは、旧約聖書の創世記における人間の創造をもじったものなのでしょう。人間における精神性の強調は、池田さんの言い方に同じです。

『人生のほんとう』から「年齢」の章

2006-08-20 01:48:00 | 哲学
 池田晶子さんの最新刊『人生のほんとう』の新聞広告において、読者のアンケートからでしょうか「年齢の章が爆笑もの」とあったので、その「年齢」の章をちょっと読み返してみました。

 そもそも池田さんの本質的な転倒的言質は、確かにおかしくて笑えるものではあります。とくに「年齢」のところでは、アンチエイジングにいそしむおかしさ、つまり若さを至上の価値とするおかしさをあざやかに指摘しています。「加齢とは単なる事実である。鶴亀でも年をとる」と言われると、当たり前すぎて確かに笑えます。


 ただこの本は講演の記録ですので、リップサービス的な部分があるのか、池田さんらしくない言葉もやや多いように思います。いや、むしろ池田さんも年とともに考えが熟成してきたと言った方がいいのかも知れません。

 例えば「年齢」の章の最後では、池田さん自身がボケへの恐怖を語っておられますが、かつては「ボケてもその人が思うこと以外の言動がありえるだろうか」と、ボケても人間の同一性に違いはないではないか、というような本質的な言質を仰っていました(確か『帰ってきたソクラテス』)。今回の本では、既に現状でボケているようなもんだ、という落ちで終わってましたが。


 同じく「年齢」の章で、自分の肉体との折り合いをつけることについて、「形而中」なんて言葉を使われていたのも、少し新鮮でした。池田さんはかつては、真理=ロゴスは老若男女に共通という点で、本質的に形而上の思考により形而下の存在を考える形式が基本だったように思います。だから、池田某、つまり何者でもない者の言動であったわけですが、一方で病気を克服したりして自分の肉体と折り合いをつけていく過程が、精神が肉体を全く離れて存在するとも言えない存在の一回性(人生の一回性)であることを、形而上ともいえない「形而中」なんて言葉にされたのでしょうか。


 池田さんが何を考えているのか、やはり気になりますね。

国家の品格(週刊新潮今週号「人間自身」)

2006-08-12 07:00:00 | 哲学
 池田晶子さんの週刊新潮連載「人間自身」今週号は、「国家の品格」という題でした。前回の続きのようです。主な文章を要約しつつ抜粋します。


「かの国の言動をもって、正気ではない、と非難するだけの資格がこの国にあるだろうか。我々がかの国と同じ状態だったのは、たった六十年前のことである。根拠のないひとつの観念を絶対と思い込み、その観念を守るためには全員で死ぬことを辞さない。被害者意識が選民意識に反転した集団が、追い詰められると何をするか、一番わかっているのは、あるいはこの国の我々である。
 しかし一方で、正気の国へと転じたとされるわが国は、天から降ってきた民主主義という観念を思い込んでいる。親が子を殺し、子が親を殺し、そうでなければ稼ぐが勝ちだ。こういう社会は、ひいき目に見ても正気ではない。
 あらゆる国家が多かれ少なかれ正気ではない。アメリカを筆頭に、どの国も自国の利益を正義と言い張って譲らない。これは当然である。国家であるということは、それだけで必ず狂気なのだ。
 とはいえ存在するのは、集団という観念でしかない存在に、自分が帰属していると思い込む、一人一人の人間の狂気である。国への侮辱は、自分への侮辱である。かくして狂気は拡大してゆく。」




 あいかわらず、端的で明快なするどい文章ですね。「親が子を殺し、子が親を殺し、そうでなければ稼ぐが勝ちだ。」という世相の斬り方もあざやかです。端的な文章でかつ、流れに論理破綻もなく、考えに一点の曇りもないのが、池田さんの「透徹」な文章なのです。但し、国家は「狂気」であると端的に言ってしまうので、賛同しない人も多いのですけど。

 「民主主義という観念」に否定的なのは、一瞬右っぽく聞こえますが、「国家の観念」を狂気と言っているので、やはり池田さんはもっとラディカルなのです。


 ところで、たまたまですが最近古本屋で、池田さんが惚れている小林秀雄さんと、有名な数学者の岡潔さんとの対談本を見つけて読みました。すると驚いたことに、岡潔さんは、神風特攻隊の精神を日本民族の優れた点として最大の賛美をしているのです。自我を捨てて死ねる民族は日本以外にない、欧米人にはできないと。岡潔さんの他の本も見てみましたが、かなりの民族主義のようでした。

 数学者の思考回路は、表題と同名新書の著者と同様、国家や民族の観念については共通するのかと、その類似性に少々驚きました。

核の行方(週刊新潮今週号の「人間自身」)

2006-08-06 06:52:50 | 哲学
 池田晶子さんの週刊新潮連載「人間自身」今週号は、「核の行方」という題でした。冒頭に、「人間の歴史とは、ある意味で、戦争の歴史である。」とあります。確かにそうとしか言いようがありません。そして、これからもそうであろうとしか考えようがありません。



「技術が存在するということは、すなわちそれを利用するということである。作られた核兵器は必ず使われる。
 あの国(北朝鮮)は核を持っているらしい。一方で、標的とされたこの国(日本)は、武力は決して使用しないという世界にも例のない憲法を所有し、かつ遵守する。開発した技術を使用し、自らの生存を守るのが自然であったはずのこの人間の歴史において、これはきわめて不自然なことではなかろうか。
 北朝鮮に攻撃された日本が、この不自然な理念に従って反撃せず、そのために滅んだとしたら、画期的なものとして、人類史に永く語り継がれるはずである。」




 新潮誌上だからか、何だか櫻井さんの極右的文章に通じる内容のように見えますが、よく読めば池田さんの文は飽くまで無味無臭です。しかし池田さんのこの文を読んで、哲学者も憲法がおかしいと言っている!として、憲法改正集会に池田さんを呼ぼうという人が出てきたりしそうですね。もし呼ばれると、いきなり池田さんは「国家は観念に過ぎない」と発言したりして主催者をびっくりさせ、二度と呼ばれなくなったりするわけです(あくまで想像ですが)。


 核の抑止力としての使用も、使用であると池田さんは言っており、決して爆発までさせなくても、既に核も使用されているとも言えそうです。しかし、爆発させるぞという脅しが抑止ですから、いつ実際に爆発させてもおかしくない、と言っているわけですね。あの『博士の異常な愛情』のような事態は、過ぎ去った危機とは言えないかも知れません。

 戦後60年核戦争がなかったと言っても、池田さんの文の方の文末にある通り「人類や宇宙の歴史からすればほんの一瞬」ですから、もう核は使われなくなったと断じられるのは、人類が滅亡したときしかありえないのでしょうか。