ローマ帝国の賢帝の一人と言われ、史上唯一の哲人政治の実例ともされる著者のこの書物は、体系的な記述でもないため、決して読みやすくはないものの、書かれている内容には池田晶子ファンにも同感できる言葉が多く見られた。
原著はギリシア語らしいが、翻訳のおかげか日常の親しみやすい言葉で書かれていて、あくまで著者自身に向けた言葉ではあるが、池田さんのように日常の言葉で哲学を語る姿と重なり、大変親和性を感じる。
「神」「宇宙」「魂」「理性」「ダイモーン」というような言葉も多く出ていて、時代性を感じる面もあるが、決して異教的なものでもなく、その行き着く先には池田晶子さんのいう「nobody」をも想起できる。「死」や「正、不正」に対する考え方も、池田さんの書いていたこととほとんど変わらないし、善く生きることこそに意味があるとしているところも同じだ。
「存在するもの、生成しつつあるものがいかにすみやかに過ぎ去り、姿を消して行くかについてしばしば瞑想するがよい。なぜならすべてのの存在は絶え間なく流れる河のようであって、その活動は間断なく変り、その形相因も千変万化し、常なるものはほとんどない。」(第5巻)
「罪を犯す者は自分自身にたいして罪を犯すのである。不正な者は、自分を悪者にするのであるから、自分にたいして不正なのである。」(第9巻)
「善い人間のあり方如何について論ずるのはもういい加減で切り上げて善い人間になったらどうだ。」(第10巻)
哲人皇帝にして、これらの自戒自省の言葉を真摯な姿勢で綴っていることに感銘を受ける。しかも何度も反芻するように、同じような言葉が各所に繰り返し表れる。著者は大国ローマ帝国を率いる頂点にあるという激務にありながら、このように常に自戒自省を忘れないようにしている態度が崇高であり、また人間的ともいえる。そうであるからか、現代のビジネスリーダーに対する推薦本にもよくなっている。
池田晶子さんの著作を薦めにくい手合には、この本を薦めるのも一考かもしれない。考えていることは、同じなのだと。
原著はギリシア語らしいが、翻訳のおかげか日常の親しみやすい言葉で書かれていて、あくまで著者自身に向けた言葉ではあるが、池田さんのように日常の言葉で哲学を語る姿と重なり、大変親和性を感じる。
「神」「宇宙」「魂」「理性」「ダイモーン」というような言葉も多く出ていて、時代性を感じる面もあるが、決して異教的なものでもなく、その行き着く先には池田晶子さんのいう「nobody」をも想起できる。「死」や「正、不正」に対する考え方も、池田さんの書いていたこととほとんど変わらないし、善く生きることこそに意味があるとしているところも同じだ。
「存在するもの、生成しつつあるものがいかにすみやかに過ぎ去り、姿を消して行くかについてしばしば瞑想するがよい。なぜならすべてのの存在は絶え間なく流れる河のようであって、その活動は間断なく変り、その形相因も千変万化し、常なるものはほとんどない。」(第5巻)
「罪を犯す者は自分自身にたいして罪を犯すのである。不正な者は、自分を悪者にするのであるから、自分にたいして不正なのである。」(第9巻)
「善い人間のあり方如何について論ずるのはもういい加減で切り上げて善い人間になったらどうだ。」(第10巻)
哲人皇帝にして、これらの自戒自省の言葉を真摯な姿勢で綴っていることに感銘を受ける。しかも何度も反芻するように、同じような言葉が各所に繰り返し表れる。著者は大国ローマ帝国を率いる頂点にあるという激務にありながら、このように常に自戒自省を忘れないようにしている態度が崇高であり、また人間的ともいえる。そうであるからか、現代のビジネスリーダーに対する推薦本にもよくなっている。
池田晶子さんの著作を薦めにくい手合には、この本を薦めるのも一考かもしれない。考えていることは、同じなのだと。