哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

自省録(マルクス・アウレリウス、岩波文庫)

2010-12-28 03:15:51 | 
 ローマ帝国の賢帝の一人と言われ、史上唯一の哲人政治の実例ともされる著者のこの書物は、体系的な記述でもないため、決して読みやすくはないものの、書かれている内容には池田晶子ファンにも同感できる言葉が多く見られた。

 原著はギリシア語らしいが、翻訳のおかげか日常の親しみやすい言葉で書かれていて、あくまで著者自身に向けた言葉ではあるが、池田さんのように日常の言葉で哲学を語る姿と重なり、大変親和性を感じる。


 「神」「宇宙」「魂」「理性」「ダイモーン」というような言葉も多く出ていて、時代性を感じる面もあるが、決して異教的なものでもなく、その行き着く先には池田晶子さんのいう「nobody」をも想起できる。「死」や「正、不正」に対する考え方も、池田さんの書いていたこととほとんど変わらないし、善く生きることこそに意味があるとしているところも同じだ。




「存在するもの、生成しつつあるものがいかにすみやかに過ぎ去り、姿を消して行くかについてしばしば瞑想するがよい。なぜならすべてのの存在は絶え間なく流れる河のようであって、その活動は間断なく変り、その形相因も千変万化し、常なるものはほとんどない。」(第5巻)

「罪を犯す者は自分自身にたいして罪を犯すのである。不正な者は、自分を悪者にするのであるから、自分にたいして不正なのである。」(第9巻)

「善い人間のあり方如何について論ずるのはもういい加減で切り上げて善い人間になったらどうだ。」(第10巻)




 哲人皇帝にして、これらの自戒自省の言葉を真摯な姿勢で綴っていることに感銘を受ける。しかも何度も反芻するように、同じような言葉が各所に繰り返し表れる。著者は大国ローマ帝国を率いる頂点にあるという激務にありながら、このように常に自戒自省を忘れないようにしている態度が崇高であり、また人間的ともいえる。そうであるからか、現代のビジネスリーダーに対する推薦本にもよくなっている。

 池田晶子さんの著作を薦めにくい手合には、この本を薦めるのも一考かもしれない。考えていることは、同じなのだと。

言葉によって考えるのではない

2010-12-25 11:51:15 | 哲学
 前回挙げた本(『ことばと思考』)を書店で手に取った理由は、表題のような池田晶子さんの謂いが念頭にあったからである。もともと池田さんのこの言葉に初めて触れたとき、あまりよく理解できなかった。「言葉は命」と言っている池田さんが「言葉によって考えるのではない」というのは、一瞬矛盾に感じたからだ。それまでは普通に、言葉によって考えるものと思い込んでいた。



「以前から述べているように、考えるのは理性によって考えるのであって、決して言葉によって考えるのではない。理性によって考えたその考えを、表現する際に言葉を用いるのであって、考えているその現場には言葉は存在していない。」(『ロゴスに訊け』「哲学の真髄は逆説にあり」より)



 考えるその現場に言葉が存在しないというその状況は、例えば、池田さんの思考の過程を記録した『リマーク』を見ると少しわかる。本だから書かれているのは言葉であるが、その意味するところの輪郭があいまいだったり、言葉では表現できないところを図で書かれてあったりして、言葉によらない思考の片鱗が見られる。

 言葉によって思考しているわけではないとしても、認知した内容や思考した結果を表現する際には言葉は必要である。認知は入口であり、表現は出口であるとすると、母国語の影響を受けるのは、結局入口と出口の問題で、思考自体は言語の影響は受けないということになるのであろう。

『ことばと思考』(岩波新書)

2010-12-20 01:58:58 | 科学
 話す言語によって思考の仕方が異なるかどうかを、認知心理学や脳科学の観点から実験した結果などによって分析した内容を紹介した本である。

 結論はやや折衷的な内容で、言語が異なっても認識内容に違いがない面もある程度あるものの、母国語の習得によって認知の仕方に違いが出る面もあることがわかったという。例えば、lとrの発音は日本語では区別を必要としないため、赤ん坊のときには違いを認識できていても、日本語の習得とともに区別をしなくなるという。

 よく、言語の習得によって脳の回路が異なってくるという話を聞くが、実際にそうなるようだ。人間は言語の習得によって、実際に認識する内容を自然と取捨選択し、それによって情報処理を迅速に行っているそうだ。但し、例えば色の名前の区別によって認識に影響が出る場合と、必ずしも認識に違いがない場合もあり、言語によってすべて認識に影響があるともいえないようである。

 しかし、基本の認知や思考の仕方は、母国語の影響下に一定程度あるということはいえるそうだ。これはバイリンガルでも同じで、違う言語の習得によって複数の知覚の仕方を習得できるが、基本的な言葉による認知の仕方はネイティブとは異なり、母国語の影響下にあるという。


 以前、塩野七生さんの「日本人へ」で、会社の公用語を英語にすることを笑える話としていた文章があったが、まさにそれが科学的に裏付けられているということにちょっと驚いた。日本語を母国語としている以上、認知や思考の仕方は、たとえバイリンガルでも日本語の影響下にあるわけだから、認知や思考の仕方まで英語で行うのは無理ということだ。もちろん企業はグローバルになっていっているのだから、英語を一定のコミュニケーションツールとして限定した使い方をすれば問題ないと思うが、考え方もすべて英語でするというのは日本の企業である以上困難ということだろう。

池上彰の学べるニュース

2010-12-12 08:01:01 | 時事
 世間では「池上彰の学べるニュース」というテレビ番組が、わかりやすいと評判だ。しかし、わかりやすいということはどういうことなのか。そもそもわかるということはどういうことか。『残酷人生論(増補新版)』の冒頭に「わかる」ということに関する文章が置かれている。



「あるとき私は気がついたのだが、人は、「わかる」という言い方で言われているところのその事態を、すでにわかっている。わかっているからこそ、何事かに関して、「わかる」「わからない」ということができるのだと。・・・未然形「わかろう」と命令形「わかれ」は、文法としては可能であっても、思考もしくは認識の事実としては明らかに不可能である。・・・「わかる」という事態は、「自分の」力によるものではない、「わかる」のはじつは自分ではないということなのだ。」(『残酷人生論(増補新版)』「「わかる」のは自分ではない」より)


 わからないものを、わかれ!と言われても、わからないものはどうしようもない。そういう意味で、わかるかわからないかは自分の力ではない、という池田晶子さんの謂いは確かにそうだ。

 さらに言えば、わかっていないのに、わかったつもりになってしまうことが、大変始末が悪い。だから、例えば池田さんの書いていることでも、本当にどこまでわかっているのか、常に自らを疑って、得心がいくように自問自答することが必要になってくる。そもそも「わかる」という言葉を普段使いつつも、段階的にわかっていくこともあるだろうし、あせる必要はないものの、わかるのが自分の力ではないだけに、まるで彷徨しているような感覚にも陥る。

 本を読んで著者の考えをトレースしてわかった気になっても、それは著者の頭を借りて考えただけで、本当に自分で考えたわけではないから、本を閉じたときから自分の思考は始まるといえる。いや、池田さんに言わせると、自分の思考ではなく、誰のものでもない「考え」が始まるというべきなのだろう。



 池上彰氏の番組も、見ただけでわかったつもりになっていても、見終わってよくよく思い出せば、あるいは自分で考え直せば、結局何もわかっていなかったことに気づくのではないか。そもそも「わかりやすい」ということは、自分の思考ではわかっていないことを前提にしているから、まだ自分でよく考えていない証左ともいえる。

 池田晶子さんがよく書いているように、情報は知識になりえず、知識は自ら考えることなく得ることはできないということが、そのまま当てはまる。


残酷な真実

2010-12-01 01:47:48 | 
 前回はカバーの宣伝文句を批判したが、気を取り直して、お薦めの『残酷人生論』から、池田晶子さんらしさがあふれる文章を少し引用してみよう。最初は、前々回引用した文章の少し後にある文章である。


「真実を知ることを残酷だと言えるためには、人は、知られる真実が残酷であるかどうかを、先に知っていなければならないのではなかったか。」(「プロローグ-疑え」より)


 真実を知る=考えることが残酷だということを、なぜか我々は先に知っていることになるという、論理的に明らかな、しかし通常は認識していない、意味構造の逆転が指摘される。このような意味構造の逆転は、池田晶子さんの著作には随所に見られるし、我々は直観的に本質的な指摘だと気づく。同じ『残酷人生論』の中の別の文章を引用しよう。


「「なぜ人を殺してはいけないのか」と問う我々は、その限り、人を殺してはいけないと、問う以前から知っている。知っているからこそ、その理由を問うのである。しかし、理由はないのだった。ということは、問うこと自体が、その理由なのである。」(「なぜ人を殺してはいけないのか」より)


 これを読んで、はぐらかされたと思うだろうか。問うこと自体がその理由だというのは、最初に引用したように、知られる事実が残酷であることを先に知っているのと、同じ構造にある。ここのところをもう少し説明している文章を引用しよう。


「人の世の、「なぜ悪い」をめぐるあらゆる議論が不毛なのは、内容によって形式を問おうとしているからだ。道徳を倫理だと思っているからだ。しかし、道徳は強制だが、倫理は自由である。・・・じっさい素朴に感じるだけでも、「何を為すか」という内容が、「どのようであるか」という形式よりも本質的であるとは感じられないではないか。ウソものの人間だからこそ、行為による粉飾の必要を自覚するのだろう。」(「善悪は自分の精神にある」より)


 最後の文章は、世の多くの人にとって辛らつな指摘である。ボランティアとか金銭寄付などの慈善行為は、確かに善い行為だろう。しかし、そのような“善い行為”によってだけでは、決して倫理的な“善人”とはいえない。悪人だって、慈善行為はできるからだ。では、そもそも善悪とは何か。我々は善悪をどのように知っているのか。そもそも善悪とは何かと問う以前に、“善”“悪”を我々は知っているからこそ問うているのではないか。

 内容によって形式は問えない。残酷な真実への一歩です。