哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

私の売り言葉(週刊新潮今週号の「人間自身」)

2006-06-19 08:12:55 | 哲学
 池田晶子さんの週刊新潮連載「人間自身」今週号は、「私の売り言葉」という題でした。携帯電話の話し放題という広告が相当変、という話題です。ポイントとなる文を抜粋します。

「言葉が自分の価値であるということは、その人の話す言葉を聞けば、その人の価値は瞭然だという事実に明らかである。」



 言葉が自分の価値であるのに、安く大量に無内容な言葉を発して、自分の価値を貶めていると言うわけですね。

 実際に私たちが話す際に、どこまで言葉の価値に拘っているかというのは心もとないですが、会話をしていて、お互いの言葉の「品」の有る無しは自然と判断しているような気がします。しかし、言葉の「価値」となると日常会話にそもそも馴染みません。要は、価値に馴染まない日常会話を何時間もするのか?ということでしょう。


 逆に価値の高い言葉の典型例とは、どのようなものでしょうか。例えば、エッカーマンの『ゲーテとの対話』のように、ゲーテの語ること全てに耳を傾けるような、そんな思いをいだかせる言葉が典型例でしょうか。



(私事ですが、転居のためしばらく本ブログの更新は中断します。)

愛し方がわからない(週刊新潮今週号の「人間自身」)

2006-06-09 22:54:44 | 哲学
 池田晶子さんの週刊新潮連載「人間自身」今週号は、「愛し方がわからない」という題でした。教育基本法改正案の愛国心の話の続きです。ポイントとなる文を要約しつつ抜粋します。

「改正案の「愛する態度」というのも相当変だ。心とは内面であり、外面としての態度とは別のものとしたいらしい。しかし、態度とは別に心があるなんてことはない。
 そして、心=内面の自由は規制されるものではなく、考えることで自由を確保できる。観念を見抜き、詭弁を見破り、虚構を虚構と自覚する。国なんてしょせん虚構だと自覚するなら、抵抗するまでもない。悪法も法なり、服従しながら自由でいられる。」



 最後の文は、ソクラテスたる池田さんの真骨頂ですね。「悪法も法なり」というフレーズは人口に膾炙していますが、考え方は必ずしも理解されていないように思います。要するに思考と肉体の分離と言いましょうか。悪法だから違反してもいい、とはならず、悪法が現実に肉体を規制するのならどうぞ、精神=思考は一向に自由であると言いたいわけですね。

 安直に考えれば負け惜しみに聞こえますが、カエサルのように、死してなおその思考したことが、残された人間に大きく影響を与えた歴史的事実を思い起こせば、精神=思考の勝利もありうるのでしょう。

ないものは愛せない(週刊新潮今週号の「人間自身」)

2006-06-04 07:32:30 | 哲学
 池田晶子さんの週刊新潮連載「人間自身」今週号は、「ないものは愛せない」という題でした。教育基本法改正の愛国心の話です。ポイントとなる文を要約しつつ抜粋します。

「わが国と郷土を愛する態度、とは何を言っているのか。国はネーションであり、郷土はカントリーであるなら、後者を愛する大事にするというのは理解できる。しかし前者を愛するのは不可能である。国家とは観念以外の何ものでもなく、現実のどこにも存在しないものである。存在しないものを。どうやって愛することができるだろうか。」


 これまでの国家に関する池田さんの考えを、例の愛国心の議論に当てはめたわけですね。上の文に続けて、「国を愛するとは何を愛することなのかと子供に問われたら、どう答えるつもりなのだろうか。」とも言っています。つまり抽象的な国家観念が形成できていない子供に「国を愛する」と言ってもわかるわけがない、というわけです。


 確かに「存在しないものを愛する」というのは、やや困難な気はしますが、実際にはその観念を頭の中に形成できていれば、その観念を象徴する具体的なものを通じて愛することは可能なのではないか、とも思います。今回の池田さんの文にも「人工的観念国家としてのアメリカの国家観」とありますが、例えばアメリカにおいては星条旗を神聖視するようにしていたと思います(かつてある現代美術家が、星条旗を冒涜した作品を作って問題になったりしました)。

 ですから日本においても、日の丸の旗とか、君が代の歌とか、憲法上日本国の象徴である天皇とか、具体的な存在を愛する、あるいは神聖視することに変えられていくのでしょう。そのようにすり替えられていって、本来の国家の観念を振り返ることもしなくなるのが問題である気がします。


 池田さんの文からちょっと離れますが、国家の観念とも関連して、他の国家との付き合い方ということになると、同じ島国である日本と英国は大変異なるという話をどこかで読みました。地理的には大陸のすぐ傍にある島国という状況はほとんど同じだし、国のまとまりとは異なるスコットランドやウェールズといった郷土愛的なところがあるのも日本と似ているようです。

 ところが、英国は世界に出て行き、大英帝国として長く君臨しました。なぜそのようなことができたかというと、英国は中世に大陸から侵略を受け、他民族に支配された歴史があるから、というのです。支配された経験があるから、逆に他国を支配したり付き合いをするときのノウハウをしっかり持っているというのです。

 そのように単純化して考えられるのかどうかは確証はありませんが、鎖国を長く続けた日本が、他国との付き合い方が下手な理由としては妙に納得しやすい説です。言い換えれば幸せだったとも言えそうですが。

ユリウス・カエサル

2006-06-01 05:53:00 | 知識人
塩野七生『ローマ人の物語? ユリウス・カエサル ルビコン以前』の書評:三頭政治の確立と瓦解 カウンセリングルーム:Es Discoveryウェブリブログ


 『ローマ人の物語』は文庫版で愛読中なので、まだ文庫版になっていない部分は未読ですが、上記リンク先の長文のブログでも触れられている通り、最も面白いのはユリウス・カエサルの巻ですね。塩野さんもたぶんカエサルに惚れているのでは?と勝手に思っています。


 カエサルが暗殺されたにも関わらず、その後のローマはカエサルの構想の通り帝国の道を歩み、元老院派は、死してもなお影響を及ぼすカエサルの威光に地団太を踏む状況となったそうです。それほどカエサルの考えたことは、スケールの大きい、将来まで時代を見通したものだったのですね。


 「見たいと思う現実しか見ない」ようにはならないで、現実をありのままに見据えて判断できることのできる目を養うことがいかに大切か、そしていかに難しいかを『ローマ人の物語』を読んで痛感します。