哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

『死とは何か さて死んだのは誰なのか』

2009-04-18 08:38:38 | 哲学
いよいよ新刊三部作の最後である。生と死、つまりあるとないという存在の話は、いまや一番池田さんらしく、ぶれない内容に思える。その意味で「死とは何か」で締めくくるのは極めて池田さんらしい。

ところで、今回の三部作出版は歓迎しているものの、6年2組の文章や悪筆の字をそのまま載せるなど、少しやりすぎかなとの感もある。池田さんのルーツを探るなどの意図は分かるが、そこまでやらなくても・・と思ったりする。池田晶子ファンとはいっても、人間個人として興味があるわけではなく、個人ではない誰でもない真の言葉を発することを追求したのが池田晶子さんだと思うからだ。

それよりも池田晶子さんが語る様子の方が、言葉に表れない真の姿を知る意味で興味がある。講演のCD、できればDVDがよい。池田さんが大森氏に感じたように、善く生きるということを示した真の姿を我々も感じることができるかもしれない。

近藤道生氏「私の履歴書」

2009-04-17 07:56:57 | 時事
 今月日経新聞に掲載されている掲題連載は、月半ばまで太平洋戦争の話であった。しかも日本軍隊内部の理不尽な話が多くあり、著者としては強い無念の思いで書いていたのだろう。

 例えば、著者と親しかったという学徒出陣で哲学に造詣が深かった京大生が、上官からスパイ容疑のインド人夫婦の処刑を命じられたが、それはその妻と上官との噂があった中での命令であった。しかし命令は絶対であり、従わなければならなかったが、戦後この件の戦争犯罪人としてその京大生は絞首刑になったという。

 似た話は多くあるのだろう。確か「アンボンで何が裁かれたか」という映画でも同じテーマが扱われていた。

 実際に自分が上の京大生の立場だったとして、命令を拒否しえたか、というとどうであろう。その時代の雰囲気までは今想起できないが、やはりかなり困難であろうと思う。しかし戦時中に、軍隊ではないが日本国政府の命令に逆らった人物がいる。6千人のビザの杉原千畝氏である。ユダヤ人が大使館に押しかけた時に、本国にビザを発給してよいか打診したが不可の返事、しかし杉原氏はビザを発給した。そのときの胸のうちは常人には計り知れない。

 話は変わるが、警察内部の不正を現職警察官ながら告発し、その後不当な処遇を受けたとして裁判に勝った仙波敏郎氏が定年退官となり、このたび本が出版された。現代においても、組織に抗うのは簡単とはいえないなか、巨大組織に一人で闘った人物がいることをしっかり覚えておきたい。

『私とは何か さて死んだのは誰なのか』

2009-04-09 23:44:00 | 哲学
 最後の三部作が刊行された。表題の本には、あの「わたくし、つまりNobody」が載っている。絶版の『メタフィジカ!』が初出という。

 「わたくし、つまりNobody」を最初とし、「さて死んだのは誰なのか」で終わるのは池田さんらしく一貫している。ただ「Nobody」という言葉には、少しだけ違和感がある。というのは、「自分というのは何者でもない」という言い方はその後に出版された本などで池田さんは繰り返し書いているが、「Nobody」という言い方は使わなくなっているからだ。NobodyやEverywhereという言い方は、響きもいいし決して分かりくいわけでもないが、平易な言葉で哲学を語ろうとした池田さんは、安易に外国語を使うことも避けたかったのかもしれない。

 また表題の本を読んでいて、池田さん“らしくない”文章があった。「住民投票に思うこと」という文である。これは未発表原稿だそうだ。
 まず「概念についての議論は必ず空疎」とし「戦争が概念ではなく現実であるように」とある。しかし池田さんは『残酷人生論』で、「戦争という最も観念的な出来事」と高らかに言ってのけたはずである。戦争を「いや」とか「いい」とか言う余地のない具体的現実、とは池田さんは捉えていなかったように思うが、どうであろう。
 さらに言うと、この文の最後の方で、「インターネットの可能性も侮れません」とあるが、インターネットのような便利さ追求による人間性の堕落をあれだけ指摘していた池田さんである。インターネットを肯定的に評価するのは大変珍しいと思う。

 何はともあれ、最後の新刊を味わって読もう。