哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

臓器移植法改正2

2009-06-21 09:50:39 | 時事
 前回、池田さんの「愚劣な欲望を価値とする愚劣な人間が、ひたすら長生きしてどうするのだ。」という言葉を紹介した。

 今回の臓器移植法改正は年齢制限を撤廃し、本人の意思確認も反対の意思表示ない限り不要となっているが、報道で触れられている「幼児の心臓移植」のような、本人の欲望は想起できず、家族が子供に生き続けてほしいという希望である場合はどう考えればいいのだろうか。

 家族が子供を生きながらえさせたいという希望を、愚劣な欲望とは言いづらい気もする。しかし、他人の子供の心臓を移植してでも、となってくると必ずしもそうではない。

 他人の子供でも自分の子供でも、「子供」という立場で生きることにおいては同じだ。違うのは「他人」と「自分」の部分、つまり「子供」ではなく「自分」が問題であるという点だ。

 自分の子供から子供一般を引いたら「自分」が残る。つまり自分の子供に対する愛情は、自己愛、エゴイズムの裏返しだ、と池田さんは喝破した(『さようならソクラテス』)。

 やはり、他人の臓器を望むことにおいては、子供でも大人でも池田さんの指摘する点は変わらないと言わざるを得ない。

臓器移植法改正

2009-06-18 23:03:00 | 時事
 今日の国会で年齢制限撤廃となった臓器移植法改正だが、とにかく臓器移植の可能性を拡大しようとする世情の浅ましさを、池田晶子さんは徹頭徹尾批判していた。


「人が、死ぬのを恐れて、他人の臓器をもらってまで生きたいと思うのは、なぜなのだろうか。生存していることそれ自体でよいことである、という、人類始まって以来の大錯覚がここにある。」
「遠慮なく、極端なところを言ってしまえば、愚劣な欲望を価値とする愚劣な人間が、ひたすら長生きしてどうするのだ。」
(『考える日々』より)


 いつも思うが、池田さんの言っていることは、あまりにも真っ当ではないか。

 池田さんは、「善い人間」に対しては臓器移植を肯定しているだから、臓器移植そのものを否定しているわけではない。しかし、生き続けることにしか価値を見出さない「愚劣な人間」に臓器は与えたくないということは、一体臓器移植を受けられるのは何人いるだろうか。結局「善く生きる」人は、長生きすることに価値を見出さないから、臓器移植を必ずしも望まないかもしれない。

 もし政治家が同じような言い方をしたときに、落選してしまいそうだとすれば、まさにそのことが「考えていない」民衆による政治でしかない、ということを示す証左なのだろう。

年金の不公平?

2009-06-07 07:55:55 | 時事
 年金の掛け金と受け取り金額の倍率が、若い世代と現在のお年寄り世代とで、相当差のあることが問題となっている。若い世代にとって不公平だというのだ。少子化の影響も大きいらしい。

 そもそも年金の設計時に、若い世代の掛け金をお年寄りの給付金とするように設計し、しかも少子化は予想していなかったのだから、当たり前の結果ともいえる。制度が時代に合わなければ変更するしかないのだろう。単純に冷徹に考え、制度変更をすすめるだけだ。

 にもかかわらず、人生の比較を金銭の損得勘定で考えて「不公平」だとかいうのはいかがなものか。人生の価値は金銭によって測るものではないということは、池田晶子さんが何度も書いていたことだ。

 少子化の時代に生まれたなら少子化の時代を生きるしかない。年金破綻の時代に生まれたなら年金破綻の時代を生きるしかない。生きるために金が要るというなら、あなたは一体何のために生きるのか。

「戦争の時代に生まれた人は、戦争の時代を生きるしかないという当たり前である。損か得かの問題ではない。その時そこに生まれたというのは、比較のしようがない絶対だからである。」(『勝っても負けても』より)

池田晶子さんの「絶縁状」

2009-06-05 04:43:34 | 時事
 『魂とは何か』の特別付録がトランスビューから届いた。内容は、自らの身体を蝕むガン細胞に対して「絶縁」するという短い文章である。

 編集事務局の注記によると「著者らしい叱責と啖呵で訣別を告げ、自身を鼓舞している」という。そして、著者の精神性の高さや「言葉のみありき」という姿勢の変わらない点を賛辞している。

 確かに池田さんのそういう面がこの文章に表れているといえなくもないが、それでもこの文章を読んでみての素直な印象は、池田晶子さんらしさが少し落ちている気がする。池田さん自身の病気の影響かもしれないが。
 ガン細胞を擬人化するのは、決してアニミズムを否定しない態度から全く池田さんらしくないとはいえないものの、それでもちょっと滑稽な感じである。

 とくに「私には、この人生で、やりたい仕事ややりたい遊びがたくさんある」と池田さんが書いているのは、ちょっと意外な表現であった。好意的に解釈すれば、「遊び」というのは精神性の低いレジャーなどではなく、飼い犬との精神性高い触れ合いの時間のことであろう。

 もちろん池田さんは「生きるために食べる」人だから、世の人に正しい言葉を発し続けるなど、やりたい仕事を全うすべく生き続けようとしたのも間違いないであろう。普段から「斃死」で構わないと言っていた人であっても、だ。