哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

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日野原重明さん

2005-10-31 23:10:32 | 知識人
 このたび文化勲章を受賞された日野原重明さんが、たまたま先週の新聞に「現代のメメント・モリ」という題で文を書いておられました。

 「メメント・モリ」とは言わずと知れた「死をおもえ」という言葉ですが、日野原さんは「現代のメメント・モリ」として、死への恐れをどう克服するかを語り合うこととしています。治療を望めないときのがん患者は心を乱しがちであり、それを癒すためのホスピスの重要性があるといい、死とは誰でも恐ろしく不安なので、医療スタッフや宗教家等のチームワークで、患者や家族の心を温かく支える努力が必要だそうです。

 しかし、同じことを池田晶子さんの言い方でいえば、死は無い、無いものは知らない、知らないものは恐れようが無い、ということになります。池田晶子さんの言い方でも死への恐れの克服はできそうですが、ちょっと、救われたとか癒されたという気持ちになりにくいのは難点ですかね。

千 玄室さん

2005-10-30 23:53:59 | 知識人
 裏千家の前の家元である千玄室さんの記事が、今週の朝日新聞に連載されていました。「一椀からピースフルネス(平和)を」というわかりやすいメッセージで、茶道という日本の伝統文化を通じての世界中との平和交流を図っているとの内容でした。

 正統派的な表千家に対して、「裏」千家は名前の上でハンディを背負わされているように見えますが、それゆえにか積極的に外部と交流し、国内でも国外でも圧倒的な勢力というか地盤を築かれたようです。

 玄室さんはだいぶ以前の日経新聞の「私の履歴書」にも千宗室として登場され、小さい頃から芸術と伝統文化の英才教育を受けておられたことが印象的でした。しかし今回の連載にもあるとおり、若い頃のクライマックスは特攻隊として出陣を待ちながら終戦を迎えたところでしょう。

 特攻隊等の軍隊に居ながら生きて終戦を迎えた方の言動の多くは「先に死んでいった仲間に申し訳ない」という気持ちであったとよく聞きます。実際に後を追うように自死した方も少なくないそうですが、玄室さんは一度は死んだ身として、寺に入って修行したそうです。しかし一度は死を覚悟したということによる一種の驕りを師匠に叩き直されたそうです。

 死を覚悟することが決して偉いことではない、と若者を指導した師匠の考え方は、池田晶子さんのよく言う「死は無である。無いものはわからないのだから、恐れることもない」という言明を思い出します。
 池田晶子さんの言葉と禅の思考とは、なぜか親和性の高さがあります。

絶叫首相とその時代(週刊新潮今週号の「人間自身」)

2005-10-29 05:10:21 | 哲学
 池田晶子さんの週刊新潮連載今週号の「人間自身」は、「絶叫首相とその時代」という題でした。

 適宜要約すると、「郵政法案の関係で苦しい言い訳は情けない。政治家は言葉が命だから軽々に撤回するのは自殺行為と言っていい。一方で「命を賭けている」という絶叫は勘違いである。本来政治は利害関係の調整だから、分かりやすいスローガンで切り捨てられるものに思いをいたさねば必ずや破綻する。絶叫するのは自信がないか、パニックか。首相はヒトラー同様のワーグナー好きらしいが、国民は首相と一緒に命を賭ける気はない。」

 近年のテレビ型政治(主にテレビ媒体によるマスコミでのイメージを重視する政治手法)の究極の状況が、今回の郵政解散結果に現れてるように思います。郵政民営化法案がどんな内容か、国民がどれだけそれをわかって投票したのか。小泉首相から伝わったメッセージは「改革を!」というだけで、改革の中身は本当に改革といえるのか、また他の改革の内容は不明です。例えば選挙前に消費税率に触れないようにかん口令をしいたのがいい例です。郵政だけを確認する選挙なら、それ以外の政策全般について即再選挙すべきでしょう。ただ政策のあいまいさは、自民党のみならず民主党も同罪ではありますが。

 池田晶子さんの文とは少し趣旨が離れてしまいましたが、テレビ型=わかりやすさ=思考停止(一億総白痴化)の話は、これまでも繰り返し池田さんは書かれています。政策ではなく、絶叫の言明のかっこよさで選挙が左右されているとすれば、池田さんの書かれている「ヒトラー」のごとく民主制のもとで合法的に独裁政治が実現できるでしょう。

 しかしタレント議員を選ぶようなレベルではない、国民の政治的見識の向上がなければ、国民も知らず知らずのうちに「命を賭けさせられる」ことにしかなりません。ただ池田さんのおっしゃるように、政治は「所詮この世のこと」ではありますが。

ミッシャ・マイスキーさん

2005-10-27 23:05:19 | 音楽
 チェロ奏者ミッシャ・マイスキーさんのコンサートに行ってきました。

 バッハの無伴奏チェロ組曲が好きな私は、いろんなチェリストの同曲CDを持っていますし、ミッシャ・マイスキーさんのそれも持ってはいますが、特別気に入っていたわけでもありませんでした。そもそも演奏の良し悪しまでよくわかりませんし。

 ただマイスキーさんへの見方が少し変わったのは、『魂のチェリスト ミッシャ・マイスキー「わが真実」』という本をたまたま読んだからです。マイスキーさんのこれまでの人生を振り返ったものですが、なんと彼はソ連で1年以上も収容所生活を体験しているのですね。歴史的にロシアでもユダヤ人差別がひどかった話は聞いたことがありますが、まさにその被害者だったわけです。

 あまり芸術家然としておらず、気さくな感じのマイスキーさんは、だからこそ誰からも好かれているようで、日本にもファン・クラブがあるようです。今回もアンコールを6曲もやって、なおかつコンサート後のサイン会までこなす働きぶりもちょっと驚きました。
 一方でクラシック・コンサートには珍しく、会場ではCD以外にマイスキー・グッズまで販売しているのは、いわゆるユダヤ商魂のたくましさでしょうか? まあグッズ販売をしているからといって、音楽の価値とは関係ありませんが。

池田晶子さんとたばこ

2005-10-24 22:18:10 | 
 『勝っても負けても 41歳からの哲学』の中に、たばこ規制について考えた文がありますが、この文は池田晶子さんにしては、ちょっと「らしくない」ところがあります。「若い女性の歩きたばこ・・・」とか「公共の場所での歩きたばこ絶対禁止」とか、犬を散歩させたりするからということもあってか、理よりも情が先走っている感がある文です。

 ところで、たばこについて池田さんは昔は嗜んでいたそうで、健康第一主義のたばこ規制については違和感があることを書いておられます。「健康に生きる権利をいくら主張しても、人は死ぬときは死ぬ。そもそも生きるということがどういうことか考えたことがあるのか」と。

 何となく、頭の良い人は自分や他人の健康を害することがわかっているから、たばこを吸わないと思っていたら、なんとあの養老孟司さんもヘビースモーカーなんですね。養老さんの言葉はもっと過激で、嫌煙権の横暴をファシズムのようにたとえられています。

 池田さんや養老さんのたばこに対する言動を知ると、ちょっとたばこに対する嫌悪感も薄れてきました。

池田晶子さんの『41歳からの哲学』書評サイト

2005-10-22 02:14:37 | 
 ウェブで池田晶子さんの『41歳からの哲学』を評しているサイト(http://charm.at.webry.info/200507/article_8.html)を発見しましたので、紹介します。

 書評について気になるところを引用しますと、「書き手は、主観的感情と哲学的思索を社会一般の常識に対して圧倒的に優位におく・・池田晶子女史です。・・書かれている内容の真偽や妥当性を冷静に分析して批判するような読み方は全く似合わない。また、哲学に関する正統的な知識や社会的な倫理観をもってこのエッセイ群を論駁しようと思えば簡単に出来るのです。・・大半が独断的結論と主観的思弁によって展開されるエッセイなのですから、はじめから著者自身、知的な防衛や主張の客観性などには配慮していないでしょう。」

 うーむ正直言って、「哲学に関する正統的な知識」を持ち合わせない私ではありますが、池田さんの文について「論駁しようと思えば簡単にできる」との認識を私はなかなか持ちえません。もちろん池田さんは反論を封じるつもりなどさらさらないでしょうが。
 しかし、「独断的結論と主観的思弁によって展開されるエッセイ」というのは確かにそう言っても間違いではないですが、「はじめから著者自身、知的な防衛や主張の客観性などには配慮していない」というのは、池田さん自身の認識とは逆ではないかと思います。

 おそらく池田さんは主観的思弁(のようでありながら)=客観的思弁として語っていると思います。つまり、誰が考えてもこうなるはずである、と考えられるところのものを、です。決して相対的ではなく、絶対的な言葉として。それが主観的なのだ、と言われればそれまでですが。

思わせ人生(週刊新潮今週号の「人間自身」)

2005-10-21 20:04:39 | 哲学
 池田晶子さんの週刊新潮今週号の「人間自身」の題は、「思わせ人生」でした。

 内容を適宜に要約すると、「いわゆるハウツー本のしょうもなさが加速している。「頭がいい人と思わせるための・・」というように、頭をよくすることではなく、頭がいいと「思わせる」ようにするというのだから、元から見せかけである。つまり見せかけの人生でよしとし、本当の人生=自分の人生を生きないで、他人の人生(他人にどう思われるかという人生)を生きているのである。他人にどう思われるかを最重要とする人生に空しさを感じないのだろうか。」

 池田晶子さんが今までも繰り返し述べておられることですね。他人の評価を気にすることを、「他人の人生を生きている」という言い方によく言い替えておられます。
 自分の人生は自分で生きる、という当たり前のことを忘れそうになる私たちにとって、新鮮でかつ重い言葉です。

 但しこの「自分」というのも、実はよく考えると問題です。これも池田晶子さんの文によく出てくるのですが、他人の影響を一切排除した「自分」とはいかなる「事態」なのか。自分とは何か? 自分という存在は一体何なのか? これは結局「存在とは何か?」という問いに還元されるそうです。さて、自分とは・・?
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有田・伊万里

2005-10-20 21:54:04 | 陶磁器
 以前九州に住んでいたとき、よく有田や伊万里の焼き物を見に行きました。春の有田焼まつりには、朝早くから随分多くの人が集まります。有名な柿右衛門や今右衛門でも、まつり期間中は値段が安くなり、お得感があります。

 ところで、そもそもこの地域で磁器が作られ始めたのは、秀吉の朝鮮出兵によって連れ帰られた朝鮮半島の人々が良質の石を見つけたことに始まるのは、有名な話ですね。日本の誇っていた伝統製造業も元は輸入技術だったんですね。しかもあの朝鮮半島からの、です。

 当時中国の景徳鎮が世界最高の磁器ブランドだったようですが、しばらくして伊万里焼にバトンタッチします。自動車大国のGMが日本のトヨタに首位の座をバトンタッチするようなものでしょうか。

 しかしいずれ、武き者もついには滅びぬ、でしょう。いまや日本の磁器よりも西洋磁器の方がブランド価値があるように思えます。トヨタ・ブランドの磐石さも、ひとえに風の前の塵に同じ、ということになりかねないかも。韓国の自動車もいまや結構日本国内を走っていますしね。

見たいと思う現実しか見ない

2005-10-16 22:12:09 | 
 塩野七生さんの『ローマ人の物語』を読んでいると、カエサルの言葉である「(凡人は?)見たいと思う現実しか見ない」というフレーズが繰り返し出てきます。天才は、見たくない現実もしっかり見据えるというのでしょう。

 この言葉で思い出したのは、心理学で学んだ認知的不協和の理論です。
 人は情報を得るとき、情報に色は無いのだから、どんな情報もピュアに受信できると考えますが、認知的不協和の理論によると必ずしもそうではありません。自分の思考に整合的な情報は受け取りますが、整合しないものは無意識のうちに排除しているのです。

 知らず知らずのうちに情報の偏りが出来、知らず知らずのうちに偏屈な考えに凝り固まってしまうのが凡人の運命なんですね。カエサルのような天才でなければ、あらゆる情報を的確に受信し判断することは叶わないのでしょう。

金の論理 数の論理

2005-10-15 23:39:33 | 時事
 一昨日NHKの番組に村上ファンドの方が出ておられました。
 インタビュアーの方が、阪神ファンの意見がどうのとか言い、村上氏もファンの意見を聞いて・・といいつつも、やはり儲かることが一義である発言が端々に見られました。
 楽天VSTBSの件も、敵対的ではないといいつつも、そう言わざるを得ないことがまさに敵対的である証拠でしょう。

 以前のホリエモン氏の件でもそうですが、敵対的かどうかとか、法的に問題なくてもやり方がフェアでない等の話は、資本主義経済をうたっている以上、的外れとしかいいようがありません。法律違反にならない限り、金で買えるものを金で買うことに異議はないルールのはずです。まずければ法律を作るべしです。

 小泉首相の郵政解散圧勝の結果も、数の論理で法案を通すことは民主主義である以上当然の論理です。これを全体主義として批判するなら、しかるべく法律をつくるべきでしょう。例えば、与党が3分の2を超える議席を獲得したら、法案は通せないとか?