哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

善悪雑感(週刊新潮今週号の「人間自身」)

2007-01-29 06:53:05 | 哲学
 池田晶子さんの週刊新潮連載「人間自身」今週号は、「善悪雑感」という題でした。警官が泥棒したとかのニュースに、最近池田さんは笑わなくなったそうです。



「やっていいこと悪いことのけじめを教え、取り締まる立場の人に、やっていいこと悪いことのけじめが、わからない。まさにこのことが、やっていいこと悪いことのけじめが、道徳や法律ではあり得ないことを示している。倫理意識とは、道徳や法律のことではない。倫理は外在的なものではないのである。

 倫理すなわち善悪の問題は、本当に難しい。難しいのは、それが難しいゆえに何らか外在的なものに委ねてしまいたい、その誘惑に抗するのが難しいのである。

 しかし判断の放棄とは、自由の放棄である。人生の自由を失いたくないのなら、人は、自ら内なる善悪を問い続けるしかないのである。」



 池田さんはこの善悪の話を何度も繰り返し書いておられます。というか、池田さんの書かれるテーマの中でもっとも中心部分を占めているように思います。なお池田さんは、倫理を内在のもの、道徳を外在のもの、と使い方を分けておられます。


 善悪というものの判断は、その判断基準を外在させる限り、自ら善悪の判断はしていないことになるわけですね。自らの内部にもつ善悪の判断基準を、倫理というわけです。


 池田さんが今回例に出している「貧しく、食べ物もなく、子供を養わなければならない。やまれずに食べ物を盗んだ」という場合に、池田さんは「あらゆる場合に、泥棒は悪いことなのか、よくよく考えると、よくわからなくなる」と書いておられますが、場合によって泥棒が善いことにも悪いことにもなると考えられるのでしょうか。例えば、盗む人にとっては善いが、盗まれる人にとっては悪いとか、相対的な判断もありうるのでしょうか。


 注意したいのは、池田さんは善悪を決して相対的なものと考えておられないことです。「善」や「悪」という言葉そのものが人々の間で通じるように、善悪の判断も、絶対的なものでなくては、そもそも善悪の判断が意味を成しません。


 「悪いこと」は自分を悪くする、だから「悪いこと」をしたくない、というならば、泥棒をすることは、飽くまで他人のものを盗むという以上、素直に考えれば、悪いことと言わざるを得ない気がします。池田さんは、どこにも答えを書いておられませんので、自分で考えるしかありません。

文明は暴走する?

2007-01-25 23:23:10 | 知識人
 文明は暴走する。
 イースター島の歴史に関する番組でそのような話がありました。
 部族間の競争により、石像はどんどん大きくなり、作成に使われる木の伐採が進んで島が荒廃して食料が減っても、石像は作られ続けたそうです。一方で部族間の戦争で石像も倒されたりもしたそうです。石像を作り続けるのは全く無益で有害なのに、文明は暴走してしまって止まらなくなるということです。


 話は変わりますが、塩野七生さんと五木寛之さんの対談を3日のNHKでやっていました。
 視野の広さというか、視点の位置の高さはさすが塩野さんでした。五木さんが日本での最近の自殺者の多さを問題にしたところ、塩野さんが「平和の代償なんですよ」とあっさり言ってのけたため、五木さんは絶句していました。おそらく五木さんにとっては平和は絶対的価値なので、その代償と言われたのでは困ったのでしょう。
 さらに五木さんを絶句させた塩野さんの言葉は、パレスチナではいじめで自殺したり親や子を殺したりはないでしょ?でした。確かに身の周りで戦争が行われていれば、学校にはそもそも行けないし、家族内で殺し合いなんて有り得ないように思えます。もちろん塩野さんは、決して戦争の方がいいと言っているわけではありませんが、歴史を見れば人間の行うことは結構明らかになります。

 この番組の中で塩野さんが言うには、パックスロマーナが去った後に長くて暗い中世に入ったように、今もし欧米が力を失えば、群雄割拠の中世に戻ると思われるそうです。


 ローマ文明が暴走したといえるのかどうかは分かりませんが、欧米を中心とする今の物質文明は、まさに暴走拡大中という感じですから、暴走した結果が悲惨な結末になっても、決しておかしくないよう気はします。

人間は堕落する(週刊新潮今週号の「人間自身」)

2007-01-22 07:23:45 | 哲学
 池田晶子さんの週刊新潮連載「人間自身」今週号は、「人間は堕落する」という題でした。学者や研究者のテレビタレント化を見ての話しだそうです。池田さんも少しは民放を見ておられるのでしょうか。



「人間というのは、より賢くなるために生きているのであって、より馬鹿になるために生きているのではない。
 しかし、違った。じつに多くの人間が、堕落する。続々と堕落してゆく。
 喜劇である。死ぬまで人間には道を誤る可能性があるのだ。なぜそれが可能なのだろうか。
 当たり前だが、これは裏返し、自分の道を見出していないからである。道は決して自明なものではない。だからこそ、常に自らに自らの道を問うことで、人は自らの道を確認するのだ。」



 水が低きに流れるように、人間も楽な方を好むと言えます。さらに、一般的には「有名になる」というほうが、「有名ではない」ことよりも価値が高く置かれます。これは有名なほうが、偉く思えたり金を稼げそうだからでしょう。
 ただ、池田さんの仰る通り、それは人生の本質と何の関係もありません。


 一方で、確かに「道」を見出した人間は、それを極めるべく突進していくことは結構容易に想像できます。まわりの誰に非難されようと、自分の道を選んだ以上、とやかく言われる筋合いはないからですね。
 この「道」というのが、池田さんに言わせれば「人生の本質」となるものなのでしょう。


 そうはいっても、「道」というのは必ずしも実現困難な高尚なものばかりを必ずしも言っているのではなく、つきつめれば普通に生きる事と何ら変わらないことになるのだろうと思います。

銀河も我も(週刊新潮今週号の「人間自身」)

2007-01-15 02:50:00 | 哲学
 池田晶子さんの週刊新潮連載「人間自身」今週号は、「銀河も我も」という題でした。「宇宙と宇宙論好き」と池田さんは自分で仰っています。



「すべての事象は、「考えられて」、存在する。ここに、「ビッグバンにより存在した宇宙が我々を生み出したと考える我々を、ビッグバンにより存在した宇宙は生み出した」という、科学的物証を超越する認識の入れ子構造が出現する。考える限り、誰も考えの外には出られないのだから、「宇宙」と「我々」とは、じつは同じものだったと気づくのである。当然のこと、この「我々」は、物理的のものではない。時間的存在者ではないことになる。」



 最後に書かれている「時間的存在者ではない」我々とは、死ぬべき存在としての生身の我々ではなく、まさに生身を離れた、我々の「思考」そのもののことを独立させて言っているようです。そうすると、「考えの外に出られない」のは当たり前です。「思考」そのものを「我々」と言っているのですから。ただ「宇宙」と、思考する「我々」が「同じもの」とはどういうことでしょうか。


 池田さんは「精神性」を常に強調しますが、それは上の文章に端的に現れています。科学的物証にしても、あるいは日常の様々の事象も、「考えられて」こそ存在する、というわけです。確かに宇宙そのものは人間より以前に存在していたように通常思われますが、そもそも「存在する」という事象そのものが、「考えること」によって、あるいは言葉という概念として表現されることによって初めて把握されますから、「存在する」と考えることによってしか、そもそも「存在する」という事態がありえないわけです。


 この点は繰り返しますが、言葉より前に物理的存在はあったのではないか、と一般には思われやすいのですが、そもそもそのように全ての事象を捉えること自体が「考えられて」しかありえない、ということを言っているのです。


 そうすると、「宇宙」の存在という概念そのものが、我々の「思考」を根拠に立脚しているわけですから、「宇宙」の存在は「思考」によって初めて存在しているといえます。つまり、「宇宙」は「思考」を前提とし、考えられてこそ存在する、言わば一体のものといえるわけです。それが、「宇宙」を、思考としての「我々」と同じもの、と表現されているのだと思います。

お正月の復権(週刊新潮今週号の「人間自身」)

2007-01-06 00:25:15 | 哲学
 池田晶子さんの週刊新潮連載「人間自身」今週号は、「お正月の復権」という題でした。



「永遠的循環の中の、一回的人生。いま生きているということ自体が、奇跡的なことである。ああ今年も無事に皆の顔を見ることができた。奇跡的なこと、おめでたいことだ!
 存在の奇跡性に気がつくと、人生の風景は明らかに改まるのである。」



 存在の奇跡性=一年を無事に過ごせて生きていられたこと、ということだそうです。
 一年を生きてきたことが奇跡、今生きていることも奇跡。奇跡的なことが起これば、確かにおめでたいのですから、お正月がいかにおめでたいか、ですね。


 本当は、今生きていることが奇跡なら、毎朝おめでたいはずなんですよね。今日も生きていた、おめでたい!と。池田さんも前にそのようなことを書いておられました。


 通常我々は、一日生きているだけで奇跡とは通常思っていませんが、例えば戦時であれば必ずしもそうは言っていられません。それに、交通戦争という言葉があったように、本当の戦争でなくても命を失う機会はいくらでもあります。今日も命があってめでたい、という気持ちがあれば、命をもてあそぶような殺人事件は起きないのかもしれません。

 先日テレビで放映された番組での塩野七生さんの話でも、似たような話がありましたが、その件はまたの機会に書きます。