成満(じょうまん) という。

ある目的が達成されることを、仏教で、成満足と言います。
巡礼を始めて二十五年、皆さん年を取って、強行軍の巡礼では、三日目から故障者がではじめ、バスに居残る方が昨日は四人。
本当に大変だと思います。
でも、これが信心の巡礼でもあります。
最後に唱えたご詠歌は……

ありがたや ここがお札の 打ち納め またのご縁を 結びたまえや

涙して唱える方が少なくありません。

さて、これからフェリーで高松です。
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88ばなし

小豆島88箇所霊場巡礼の旅も4日目。
22人の(同行)どうぎょう。
般若心経やご詠歌を唱えて、次から次へ。
忙しいお参りではありますが、それぞれのお寺やお堂で、何かお話をしながら、お参りしています。
バスを降りてから勤行が終わるまでに、自分が何を感じ、何を思い、それを話せるか……。それを楽しんでいます。
明日は最終日です。
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台風de遍路

3日間で54札所をお参りして、さあ明日は台風ど真ん中の小豆島88箇所。
さて、どうなる?!
私も台風さなかの巡礼は初めてです。
臨機応変に対応できるか、行き当たりばったりになるか…
それは次回にご報告申し上げます。
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小豆島88箇所

雨が降ったらお参りできない札所を先に。
皆さん必死であります。
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花山の思い 17番札所 六波羅蜜寺

 花山の思い 17番札所 六波羅蜜寺

 さて、西国33観音も折り返しとなりました。
 17番札所は、ここも京都市内の六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)。

 花山法皇が読まれたご詠歌は、

  重くとも 五つの罪は よもあらじ 六波羅堂に 参る身なれば

 大意は――どんなに悪人であろうと、両親を殺したり、坊さんをころしたりするような大罪を犯すことはありますまい。この六波羅蜜寺へお参りするくらいですから。そうしたあなたを観音さまはしっかり救ってくださいます。

 仏さまにお参りする人々の思い千差万別です。
 亡き人の菩提を弔う(冥福を祈る)ため。
 病気平癒や、「私を救ってください」などのお願いごとをするため。
 感謝をするため。
 ほかにもたくさんあるでしょう。
 そのいずれもが、結果的に自分を見つめることにつながっていきます。

 私も自分を見つめるために、少々お参りをして参りますので、次回はしばらくは、現場から携帯電話での投稿となります。

 メールを打ちなれない私のことですから、かなり短い文章になるでしょう。わははは。

国霊場ホームページ⇒http://www.saikoku33.gr.jp/
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花山の思い 16番札所清水寺

松風や 音羽の瀧の 清水を 掬(むす)ぶこころは 涼しかるらん
 ※掬(むす)ぶは、両手ですくうということ。

ご存じ、京都の清水寺(きよみずでら)は、れっきとした西国観音霊場の一つ。

 松風の音も聞こえてくる、音羽の瀧のきれいな水を両手ですくって飲んで見ると、どんなに涼しく清々しい気持ちになることでしょう。―――そう花山法皇はご詠歌を詠んでいます。

 もとより、松風は観音様の説法の声、そして清水は、八つの功徳があるという浄土の水にたとえての歌です。
 
 いまでは、長いひしゃくで音羽の清水を飲むために行列ができていますが、かつては両手ですくって飲んでいたんですね。

 ☆     ☆      ☆    ☆

 「密蔵院は日曜に法事があるから、二次会は駅そばの居酒屋です」--そう言って、密蔵院で解散になったのは22時50分。
 一カ月ほど前に南アフリカへ植林に行った若者たち(一部をのぞく。わははは)の同窓会件、報告会。

 このうち今日の朝5時に密蔵院へ帰ってきたのは、京都大阪組の・・・4人かな?わはは。よくわからん。9時にも一人帰ってきたからな。
 京都組は二台の車にのって帰って行った。
 今回参加のみんなには、本堂で、拙い私の法話を15分ほど聞いてもらった。
 心を静かにしないと見えない、聞こえない、わからないことがあるという話から--
 鐘の音は三種類あるということを実際に聞いてもらった。
 ちょうど中秋の名月だったから、「月輪観(がちりんかん)」という真言の瞑想法を体験してもらった。---私にとっても、彼らのとっても貴重な体験になったようだ。
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ちょっと、レッツ テイク ア ブレイク

去る8月下旬から9月上旬まで、南アフリカに植林へ行った若者たちが全国から120人。

その中に、堀之内哲也(京都在住、路上詩人)と、平井慶祐(カメラマン)がいる。
二人とも友人だ。


普通の人より特殊な意志伝達手段を持つ二人が、ちょっとした用事で東京に来るというので、一カ月ぶりに、南アフリカへ行った仲間の集いを呼びかけた。

密蔵院でトークやるぞ。という具合である。

30名の若者が夜7時を目指して集合。最後はカンボジアで日本のマツリのノリを伝えるぞというわけで、ダンス、ダンス、ダンスで締めくくったプチイベント。

とても、西国のご詠歌を紹介している余裕はありませんでした。ぎゃははは。

ごめんなさい。
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花山( かざん)法皇;の思い 第十五番札所(時系列)

〔昔より 立つとは知らず 今熊野 仏の誓い あらたなりけり〕

世の中には「へぇ、そうだったんだ」ということが往々にしてあるもの。
花山法王もそうだったのか……

「弘法大師が開祖だと思っていた泉涌寺(せんにゅうじ)だと思っていたら、それより昔から、熊野の地と縁がある観音様が、ここにはおいでだったのですね。そう思うと、昔のこととはいいながらあらためてこの仏様の御利益を願わずにはいられません」
――まあ、そういう意味だろうと思います。

「昔より」と「今熊野」で、昔と今を対比させて、さらにあらたで「新た」をつなげ ていく手法はなかなか見事ですね。

いったい、私は、「昔」と「今」と「あらた」をどのように心の中でつなぎ合わせるようなことを体験しているのだろうと思います。

「昔はこうだった」、「でも今じゃこうだ」、でも(だから)、「これからは新たな思いで、こうしていこうと思う」―――見事な時系列な発想と言葉のつむぎ方をしたご詠歌ですね。

国霊場ホームページ⇒http://www.saikoku33.gr.jp/

☆    ☆    ☆    ☆   ☆

 今日はご詠歌を勉強中の若手の先生の卵5人の〔自主トレ in 密蔵院〕を10時から15時30分まで。
 一人一人の唱え癖に耳をそばだてて注意力を持続させるのは、楽しい時間です。

 自主トレーニングの監督役を終えてから、東京は白山(はくさん)にある東洋大学へ。
 年末に講義の演習科目の中、「仏教の伝統歌謡」という4コマをいただいて、20才学生さんたちに「ご詠歌」を伝えちゃおうという企画。
 いわゆる二部の学生さんたち向けの講座ですが、おお、おもしねえ。
 わっしのご詠歌と語りが、どこまで通用するか、ひとつやってみましょうって心持ちであります。

 加えてあすの夜は、密蔵院はえらいことになりそうな予感・・・それはまた明日のお話をお楽しみに。
 もう寝ないと、絶対に明日もたないわい。ぎゃははは。
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花山の思い 十四番札所(湖面の月)

出(い)づ入(い)るや 波間の月を 三井寺の 
鐘の響きに 空(あ)くる湖(みずうみ)

「月を三井」は「月を見る」にかけてります。

琵琶湖を眼下に望むこの三井寺(みいでら)。海とも見まごう、その湖の波間に映る月影は出て、そして沈んでいく。そんな時間を暫(しば)し楽しんでいる間に、三井寺の朝の鐘が聞こえてきて夜があけてしまう。
――そんな情景を詠んだ歌でしょうか。

 もとより、出たり入ったりすることも諸行無常のたとえ。
もとをただせば水なり、のその表面に立つ波も現象世界の無常のたとえ。
こうした諸行無常の中にあって、十一面観音をまつっている三井寺の、早朝の鐘は、まさに観音さまの説法であり、(諸行無常のあり方を常住と勘違いしてしまう)煩悩の闇も夜があけるように、悟りの世界へと導いてくれることだ。
――そんな意味が裏側にあります。

こういう心のあり方は、一人、もしくは少人数でないと形成されません。
花山法皇はこの歌が浮かんだ時、一人だったのだろうか……そんなことを思ってしまいます。

さて次回は、JRが“夏が終わり秋になる前”みたいな宣伝中の(たぶん東日本だけ)「そうだ京都へ行こう」のお寺、京都は泉涌寺(せんにゅうじ)の中にある、今熊野(いまくまの)観音堂のご詠歌をご紹介したします。

国霊場ホームページ⇒http://www.saikoku33.gr.jp/


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良かった、今日中にアップできた・・・。
今日の東京の月は綺麗でした。アワタダシイ日々の中で、清涼感を覚えるほどの秋の月でした。明日からは雨模様の予報。
そしてまた、台風の情報が。 来週からの小豆島88ケ所の巡礼は大丈夫だろうか・・と少々ワクワクしてます。ぎゃはははは。
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