平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




JR人丸前駅の少し西に玉垣に囲まれて建つ腕塚神社があります。
かつては、平忠度の腕を祀る小さな祠が山陽電車の踏切の傍にあり、
周辺は平家物語に語られている「忠度最期」に因んで
右手塚(うでつか)町と呼ばれていました。
昭和五十九年三月、山陽電車の高架化に伴って祠は、
現在地に移され、町名は天文町に変わりました。







 腕塚神社縁起には、次のように記されています。
「寿永三年(1184)二月七日、源平一ノ谷の戦いに敗れた薩摩守忠度は、
海岸沿いに西へ落ちていった。源氏の将の岡部六弥太忠澄は、
はるかにこれを見て十余騎でこれを追った。忠度につき従っていた源次ら
四人は追手に討たれ、ついに忠度は一人になって明石の両馬川(りょうまがわ)まで
きた時、忠澄に追いつかれた。二人は馬を並べて戦い組討ちとなる。忠度は忠澄を
取り押さえ首をかこうとした。忠澄の郎党は主人の一大事とかけつけ、忠度の右腕を
切り落とす。「もはやこれまで」と、忠度は念仏を唱え討たれる。箙に結びつけられた
文を広げると「行きくれて木の下陰を宿とせば花や今宵の主ならまし 忠度」とあり
初めて忠度と分かった。敵も味方も、武芸、歌道にもすぐれた人を、と涙したという。
清盛の末弟の忠度は、藤原俊成に師事した歌人であった。年齢は四十一歳。
忠度が馬を並べて戦った川をその後、両馬川と呼ぶようになり、つい最近まで
山電人丸前駅の北に細い流れが残っていたが、埋められて暗渠(あんきょ)になってしまい、
昔を偲ぶよすがもない。腕の病に霊験あらたかだとお参りする人が絶えず、
いま神社にある木製の右手で患部を撫でれば、よくなるといわれている。
これは地元の彫刻家が彫って奉納したものである。山電の線路脇に忠度の腕を
埋めたという小さい祠があった。昭和五十九年三月、山電の高架化工事のため
東三十メートルの位置に移されたものが現在の腕塚神社である。
町名もこれに因んで右手塚(うでづか)町と称していたが、天文町に変更された。
時代の流れとはいえ歴史や伝説が消えていくのは惜しい。
 地元の天文町右手塚自治会が、年間を通じて献花・清掃などに奉仕しているが、
毎年三月の第一日曜日に氏神の神官と共に祭礼を行い、謡曲『忠度』を連吟で
奉納して忠度を偲ぶ習わしである。謡曲の奉納は神社が現在地に移ってからであるが、
みたまを祭るご奉仕がいつの頃から始まったものか地元の古老も知らないから、
その起源は随分昔に違いない。地元民としては子子孫孫に至るまで
神社奉仕が伝承されることを切に願うものである。
参考文献 『新明石の史跡』明石文化財調査団編集」

腕塚神社南にある閑静な住宅街の一角に玉垣をめぐらせた忠度塚があります。
古くは、忠度塚周辺を忠度町(現・天文町)といい、
塚には鎌倉時代の五輪塔が祀られていましたが、江戸時代、明石藩五代藩主
松平忠国(在任1649~1659)が墓所を整備し、明石藩おかかえの
儒者・梁田 蛻巖(やなだぜいがん)が碑文を作り、石碑が建てられました。

阪神淡路大震災で墓所は倒壊しましたが、住民によって再建され、
「平成七年一月十七日午前五時四十六分の阪神淡路大震災により倒壊せる
石碑等を修復す平成七年四月十日 天文町町内会 忠度」と刻んだ碑がたち、
手水鉢には、正保三年(1646)の年号が刻まれています。









神社前の通りを少し西に行くと忠度公園があります。
明石市源平合戦の史跡1(両馬川旧跡)  
忠度都落ち(俊成社・新玉津嶋神社)
『アクセス』
「腕塚神社」明石市天文町一丁目 山陽電車「人丸前駅」下車すぐ
山陽電車高架橋脚のすぐ南
「忠度塚」明石市天文町二丁目 山陽電車「人丸前駅」下車徒歩5、6分

国道2号線の信号を渡って南へ進み、1つ目の辻を西へ入ります。
明石裁判所裏門横になります。

『参考資料』
「兵庫県の地名」Ⅱ平凡社 「新兵庫史を歩く」神戸新聞出版センター
 「ロマンあふれる街 明石」明石観光協会

 

 

 



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