平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




神戸市長田区の腕塚堂からほど近い野田町にも、忠度ゆかりの
史跡があるというので訪ねました。

JR鷹取駅前の商店街をぬけ、自動車の往来の激しい国道2号線を
右にそれると、静かな住宅街に入ります。そこから南に少し行くと
駒ヶ林小学校の前に出ます。学校の脇をぬけ東南方向に進むと、
伍魚福(ごぎょふく)の横に「平忠度胴塚」という立札がたっています。











忠度の胴を埋めたと伝えられる場所には、忠度の墓やお地蔵さん、
源平合戦で戦死した名もない兵たちの塚が安置され、大きな石碑には、
「正四位下薩摩守平朝臣忠度墳」と刻んであります。

阪神淡路大震災で長田区は大きな被害を受け、この石碑もばらばらに崩れました。
石碑にかすかに残る痕あとが大地震の衝撃のすごさを物語っています。
掃き清められた墓所、道行く人が歩みをとめて手を合わせる姿に、
この塚が地域の人々に大切に守られていることを実感しました。
胴塚(首塚)現地説明板
由来 薩摩守平忠度(1144年~1184年)は平清盛の末の弟で、
文武に秀でいでた将に平家「一門の花」と云はれていた。
源平一ノ谷の合戦に於て源氏の武将岡部六弥太忠澄に討たれ惜しくも
この地で戦死したが最後は駒ヶ林の辺だと伝えられている。歌道は
藤原俊成に師事し「千載集」にも詠人知らずとして採られているほど武芸にも
歌道にも優れた良い武将であった。人は皆、敵も味方もこの武将の死を惜しんだ。
行きくれて木下かげを宿とせば 花やこよいのあるじならまし(旅宿花)
さヾなみや志賀の都はあれにしを 昔ながらの山桜かな(千載集)

腕塚堂は北東へ300mほど
薩摩守忠度の最期(腕塚堂)  
『アクセス』
「胴塚」神戸市長田区野田八丁目27

 JR「鷹取駅」下車徒歩15分
国道2号線の信号を渡り東に進み、野田4の交差点を右折、
駒ヶ林小学校と野田交番所の間の道を入り久保1-1の交差点を右折、
「伍魚福」隣が胴塚です。

 



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