平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



山陽電車「人丸前駅」北側の歩道上には、平経正の馬を埋めたという馬塚があります。
経正は祖父忠盛、父経盛の詩歌管弦の才を受けつぎ、特に琵琶に秀で
歌人としては『千載和歌集』に「読み人知らず」として収められ、
また家集『経正朝臣集』も遺しています。



経正は幼い頃、仁和寺の宮に稚児として仕え、
中国伝来の琵琶「青山(せいざん)」を賜りました。
義仲が挙兵した際に、副将軍として北国下向の途上、竹生島を訪れ、
竹生島弁財天の前で琵琶の秘曲を奉納すると、弁財天は感にたえかねて
白龍となって経正の袖に姿を現したという逸話が
「平家物語・竹生島詣」に見えます。北陸道で大敗した一門は、
平家館をすべて焼き払い、都を落ちることになります。
その朝、仁和寺を訪れた経正は別れを告げ、
戦火にさらされぬようにと「青山」を返上します。
守覚法親王は別れを惜しみ、自筆の「光明真言」をお渡しになりました。

一旦は九州大宰府まで落ちた一門も、徐々に勢力を盛り返し
福原に戻り、東は生田森、西は一ノ谷(須磨)、山ノ手(鵯越麓)に
城郭を構えて一ノ谷合戦を向かえました。
経正がどの方面にいて、陣を守っていたのかはわかりませんが、
その最期を『源平盛衰記』からご紹介しましょう。

平敦盛の兄、但馬守経正は、身を軽くして逃げのびようと
重い鎧を脱ぎ捨て、赤地錦の直垂に小具足姿で
長覆輪(ながふくりん)の太刀を帯び、助け船を目指してただ一騎、
黄腹毛の馬に乗り、大蔵谷(明石市大蔵谷)へと落ちて行きました。
それを見つけたのが、逃げ散る平家の姿をやっきになって探していた
武蔵国の住人、庄四郎高家「そこへ落ちて行かれるのは平家の公達と見るが、
お逃げになるのか。馬を返せ。返せ。」と追ってきます。
経正きっと見返して「逃げるのではない。東国の荒くれどもを嫌うのだ。」と
答えて駒を早めます。すると高家は腹を立て「何という殿のお言葉であろうか。
ここは戦場、敵の心情などくんではいられぬ。討てや、者ども。」と
主従三騎で馬に鞭を当て、追いすがってきました。
経正は「今は叶わじ」と思い、駒から飛び降り、いさぎよく自刃しました。
庄氏は武蔵七党の一つ児玉党の嫡流です。

討ち取られた首の髻(もとどり)には都落ちの日に賜った
「梵字の光明真言」が結びつけられ、「たとえ朝敵となって首を渡されても、
この真言を髻(頭の上に集めて束ねた髪)に結いつけてほしい。」とありました。

「梵字の光明真言」は、梵字で記した呪文で、これを誦えれば
仏の光明によって諸罪が消滅するといわれています。
さしもの坂東武者も哀れに思い、首の髻に真言を結びつけたまま、
都大路を渡し獄門の木に架けたのち、仁和寺が引き取って
骨を高野山に送り、追善供養を行いました。


小具足とは、籠手(こて)・臑当(すねあ)て・脇楯(わいだて)など
鎧の下の装具をいいます。

長覆輪の太刀とは、柄頭(つかがしら)から鞘尻(さやじり)まで
全体に金・銀・錫などで縁取りした太刀です。

大蔵谷(明石市大蔵谷)

明石市には、東西に走る山陽道(西国街道)、現在のR2号線が残っています。
南に明石海峡が迫る大蔵谷村は、
山陽道沿いに発展した近世の宿場町として賑わいました。

経正最期について、『平家物語』には、「修理大夫経盛の嫡子、但馬守経正は、
河越の小太郎重房が手にかかつて、討たれたまひぬ。」とあるばかり。
経正を討ち取ったという重房は、河越太郎重頼の嫡男です。
頼朝は義経の妻に重頼の娘を選びますが、義経と頼朝が不仲となった時、
重房は幕府の行事からはずされ、重頼は誅殺されました。

謡曲「経正」では、死後、詩歌管弦に興じた日々を懐かしむ姿と
弁財天が感応するほど琵琶の名手であったため、
琵琶への執着に苦しむ姿が描かれています。
清盛塚・琵琶塚  
『アクセス』
「馬塚」 山陽電車「人丸前」駅下車すぐ

『参考資料』
水原一考定「新定源平盛衰記」(5)新人物往来社 新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社
 奥富敬之「源義経の時代」日本放送出版協会 上宇都ゆりほ 「源平の武将歌人」笠間書院 
白洲正子「謡曲平家物語」講談社文芸文庫 「兵庫県の地名」Ⅱ平凡社 
「ひょうご全史」(下)神戸新聞出版センター 「神戸歴史散歩」創元社

 



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