平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



一の谷合戦に敗れた西の木戸の大将軍平忠度は戦場を離れ、
海上の船を指して逃れるところを、
源氏方の武将・岡部六弥太忠澄に見つけられます。
忠度は、一旦六弥太を組み伏せて首を斬ろうとしますが、
背後から近づいた六弥太の郎党に右腕を切り落とされ、
もはやこれまでと、念仏を唱えながら潔い最期を遂げたという物語は、
「薩摩守忠度の最期 腕塚堂」の記事でご紹介しました。


神戸市長田区には、平忠度ゆかりの腕塚堂・胴塚がありますが、
忠度が討死したのは明石市内と伝えられ、
人丸前駅周辺には、
「両馬川旧跡」や「腕塚神社」「忠度塚」があります。


平忠度が岡部六弥太に追いつかれ、二人の馬が川をはさんで戦ったので
「両馬川」という名前がついたと伝えられている。


かつて両馬川は両側に土手があり、石橋が架かり
道は土手の下にあり、北の丘には柿本神社(人丸大明神)が見え、
ここからの眺めは明石八景の一つと謡われました。


山陽電車人丸前駅の北側に両馬川の細い流れが
残っていましたが、現在は埋め立てられています。

橋本海関(かいかん)が著わした『明石名勝故事談』によると、
平忠度と源氏方の岡部六弥太との戦いの場は、
明石市天文町(もと腕塚町)の両馬川の辺りで、
六弥太の郎党に切り落とされた右腕は、当地に埋められたとあります。
ちなみに橋本海関の長男は画家の橋本関雪です。
当時、平家の軍船は福原沖(大輪田泊)で敗残の将兵を救いあげていますが、
播磨国明石浦にも平家の船が停泊していたのでしょうか。


「忠度都落ち」「忠度最期」の物語は、
琵琶法師が語ることで広く人々に浸透してゆき、
物語世界に魅了された人々によって伝承はさらに広がり、
形をかえながら庶民の中に根付いてゆきます。
能には平忠度を取り上げた作品が二曲あります。
世阿弥作の『忠度』と内藤河内守作の『俊成忠度』です。
能『忠度』は、俊成ゆかりの僧が須磨の地を訪ねると、
忠度の霊が現れて和歌に対する執着心を切々と訴え、
さらに一ノ谷合戦で岡部六弥太と戦って討死した時の最期の様子を語り、
自らの回向(えこう)を願って姿を消すという展開になっています。

ところが、忠度最期の地を語る確かな史料はなく、
忠度塚にどれだけの歴史的根拠があるかについては、
今後の研究を待たなければなりませんが、
忠度に心を寄せた人々によって建てられた塚や伝承が、
それを推測する手がかりとなっています。

さて戦地に赴いてさえ、歌人としての血がたぎっていたのでしょうか。
忠度が一ノ谷合戦の前に、須磨・明石、さらに三島江・玉川の里などの
名所・歌枕を巡り歩いたと『源平盛衰記』に記されています。
明石市源平合戦の史跡2(腕塚神社・忠度塚)  
 薩摩守忠度の最期(腕塚堂) 
 平忠度胴塚  
『アクセス』
「両馬川旧跡」明石市天文町1-1

山陽電車「人丸前」駅下車すぐ西の高架下
JR「明石駅」下車東へ徒歩約15分

『参考資料』
「兵庫県の地名」Ⅱ平凡社 NHK神戸放送局編「新兵庫史を歩く」神戸新聞出版センター
歴史資料ネットワーク編「神戸と平家」神戸新聞出版センター
 AERAMooK「平家物語がわかる」朝日新聞社 「兵庫の街道いまむかし」神戸新聞出版センター
水原一考定「新定源平盛衰記」(巻5)新人物往来社 新潮日本古典集成「謡曲集」(中)新潮社

 

 

 



コメント ( 0 ) | Trackback (  )