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栄枯盛衰は世の習いとはいうものの… (yukariko)
2014-01-18 12:06:32
最近読ませて頂いた中でも忠度、経正の物語は平家公達の戦以外の側面を描いていて、格別に好きです。
平経正竹生島詣(宝厳寺・都久夫須麻神社)、経正都落ち(仁和寺)を読み直してからこの章を読むと、武運拙く自刃して最後は首を都大路に晒された最後が哀れですが、仁和寺が引き取り供養して高野山に祀られ、琵琶塚が残っているなど、この馬塚もそうですが、思い出のよすがが残されているが、ありがたいですね。
関係のあった人々が語り伝え、後世にいくつかの物語を読んで涙した人も多かったのだろうと思います。

その首を撮った手柄等で重用され、義経と義理の兄弟となった重房が、義経と頼朝が不仲となると幕府の行事からはずされ、重頼は誅殺。
歴史の流れの中では栄枯盛衰、いずれも無残ですね。

 
 
 
原因を頼朝が作りながら! (sakura)
2014-01-19 10:23:40
所領を没収された上に誅殺という憂き目を見た河越重頼。
もともと頼朝は、東国の中小武士団を統括するような豪族には、
強い警戒心をもっていました。これも重頼が処分された一因かも知れません。

忠度の和歌、経正の琵琶、敦盛の笛、経盛の和歌・笛、維盛の舞など、
いずれも一門の中枢からは少しはずれた人々ですが、
和歌や芸道に優れた人々が多くいます。
平家物語(の作者)は、彼らの芸術的風貌を伝え、
もっと生かしてやりたかったと同情しているので、
私たちもつい共感してしまいますね。
あまり和歌に興味がなかった後白河院が藤原俊成に『千載集』の編纂を命じたのは、
和歌を愛した兄崇徳院の怨霊を鎮めるためといわれています。
ところが、源平合戦の敗者という理由で、『千載集』の中には
平親宗が3首入集した以外、平家一門の歌人が「読み人知らず」として
忠度・経正の他に3首入れられているだけです。
平家が滅びることがなかったら、その評価はもっと高いものになっていたでしょう。
平親宗は時子や後白河院の妻建春門院の異母弟で、後白河の近臣として仕え、
平家全盛の頃から平家とは一定の距離をおいていました。
従って平家都落ちにも同行していません。

 
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