友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

小保方さんの記者会見

2014年04月10日 17時46分55秒 | Weblog

 「昨日は小保方さんの記者会見をみながら、がんばれ!がんばれ!と声援を送っていました」と、友だちからメールがあった。昨日も今日も、テレビニュースは小保方さんの件でいっぱいだ。今朝は冷えていたけれど風はなく、昼から5月中旬並みの暖かさになるという天気予報の正しさを予感させた。ところが午後からは風が強く、植え直した椿がまたひっくり返ってしまった。今度こそはと思い、風の当たらない南のベランダに置いたのに、一瞬の風で倒れてしまった。

 そんなピンクの椿が小保方さんに重なって見える。彼女を強い人だと思った。私ならとてもあんな風に耐えられない。「死んでお詫びします」と口走ってしまいそうだ。自殺する人は絶望の淵にいる。希望といえば、あの世にいけば楽になれる、ということしかない。生きていればこそ、悲しみや恨みや怒りがあったとしても、愛や喜びや楽しさを味合うことができる。最悪の日々が続いたとしても、いつかきっと「いい日」が来る。

 昨日のイエスのブドウ園の働き手の話で、ある人が「雇い主は不公平ではないか」と言う。確かに8時間働いた人も、1時間しか働かなかった人も、同じ賃金では納得できない。今風に言えば、「同一労働は同一賃金」だろう。しかし、8時間働いた人には約束どおりの賃金を支払っている。8時間働いた人が、1時間しか働かなかった人の賃金が自分と同じだと知って不満を持つのは、「欲」である。約束した賃金で自分は満たされているのに、自分よりも働かなかった人が同じ額をもらうことに腹を立てているのだ。

 この話の結論は、イエスのまとめにあるように思う。「最後の者が最初に、最初の者が最後になるでしょう」とは含蓄のある言葉だ。私たちは、健康な時は病気になることなど考えない。病弱な人や障害がある人への思いやりも忘れている。中には、「自業自得だ」とすら言う人もいる。けれど、どこでどう逆転するか分からない。立場が逆転することもあるから、「情けは人のためならず」と考えよということかといえば、そうではない。イエスはもっと寛容な心を求めている。いつでもどんな時でも優しくなれる心を求めている。なるほどとまた、私は感心する。

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