友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

桜まつりと写生大会

2014年04月13日 19時27分18秒 | Weblog

 私が小学校2年になる時、我が家は祖父母のいる材木屋へ引っ越すことになった。それまで住んでいた家は、お城の北側にあって、家の庭から城の形らしき姿が見えた。直線で結べばかなり近い距離だったが、我が家があった丘陵の南は雑木林で、それを過ぎると田んぼが少しあり、さらに小川が流れていて、そこから水を引いた大きな堀があった。その頃は、池というより沼で、蓮の花が咲いていた。城跡は公園になっていて、一番広いところはテニス場で、櫓があった一番高いところには和室があり、宴会などに使われていた。

 公園全体にたくさんの桜が植えられていて、4月には「桜まつり」が行なわれた。城跡の東側には私が通っていた小学校があり、明治初期に建てられた古い学校だった。4月の始め、桜まつりに合わせて小学校では写生大会が行なわれた。入学したばかりの私も先生方に連れられて、お城の公園で桜の絵を描いた。それが「おもしろい絵だった」らしくて、担任の女性教師が母に「この子は絵の才能があるから本格的に習わせた方がいい」と言ったらしい。フランス人のピカソを引き合いに出されて、すっかり舞い上がった母は私を画塾に通わせた。

 2年生になる時に引っ越した材木屋は私が通っていた小学校の学区ではなかったのに、小学校で教師をしていた父親は、「途中から変わるのは可哀相だ」と、小学校へ頼みに行ったらしい。おかげで学区外から通学することになり、長い間近所に友だちはいなかった。八百屋やあられ屋の息子と友だちになったが、学校の話は一度もしたことがない。チャンバラをするだけの友だちだった。同じ小学校の友だちもいたけれど、家が遠いということで、遊びに行くこともどこかで遊ぶこともなかった。

 「兄ちゃんはぜんぜん家にいなかった」と先日、妹が昔を振り返って言う。小学校の授業が終っても、私はまっすぐ家に帰ることがなかった。街の中をあちらこちらと歩き回っていた。今のように集団の登下校はなかったし、街中を小学生がひとり歩き回っていても危険なこともなかった。街の中の本屋を回り、寺や神社を巡り、医院の庭のバラ園を眺めて歩いた。ひとりでいることは何も苦痛ではなかった。むしろ高学年になって、地区の少年野球チームに入れられ、日曜の早朝から練習に行かなくてはならないことが苦痛だった。なんともヒネタ少年だった。

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