友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

たのしみは‥

2014年04月22日 18時59分57秒 | Weblog

 今年は天候不順でチューリップが不揃いだ。今朝、カミさんの弟妹と叔母が来てくれたけれど、ルーフバルコニーは風が強く、部屋の中から眺めてもらった。既に一番鮮やかな赤いチューリップは色褪せてしまい、次ぎに咲き出した白いチューリップは無残にも風に煽られて花弁が無くなっている。紫色とピンク色のチューリップは次第に大きくなり、明日にも咲きそうだ。

 次回の大和塾の講師は造園の先生で、そのチラシに歌人の橘観覧(たちばなあけみ)の歌が引用してある。「楽しみは 朝起きいでて 昨日まで 無かりし花の 咲ける見るとき」。橘観覧は江戸時代末期の歌人で国学者とある。調べてみると、福井の商家に生まれたけれど商売が嫌で、家督を弟に譲り、高山に移って国学を学び、独学で歌をつくったりした人のようだ。先の歌は「楽しみは」で初まる歌集『獨楽吟』に収められた1首である。

 歌の意味は正に文字通りだ。昨日までは咲いていなかった、花が今朝咲いているのを見るのは楽しいというだけのこと。「楽しみは 庭にうえたる 春秋の 花さかりに あえる時々」の他にも日常の何ともないことを歌にしている。「楽しみは 妻子むつまじく うちつどい 頭ならべて ものをくふとき」「楽しみは 三人のこども すくすくと 大きくなれる 姿みるとき」「楽しみは 物識人に 稀にあひて 古しへ今を 語りあふとき」など。

 カミさんの弟妹や叔母とその息子が、そんなに見てもらうほどではないチューリップでも、こうして来てくれればまた話もできる。血のつながりを今更深めるつもりではないが、次女が言うように、「昔話ができるのはいいこと」だと思う。橘観覧が日常の何気ないことを楽しみと表現したように、喜びも悲しみも日常の中のひょっとしたところにある。会いたいと思っていた人にあえたり、来なかった連絡が来たり、そんな些細なことが楽しい。

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